1939デルスィム事件の発掘始まる―人骨、出土
2015年04月14日付 Radikal 紙


トゥンジェリ県ホザト郡カラバユル村でジャナン家とバラン家の24名が銃殺され、埋められているという訴えをうけて開始された発掘の初日に、人骨が発見された。

トゥンジェリ県では、1938年の軍の進撃のさなかにホザト郡カラバユル村でジャナン家とバラン家の計24名が銃弾に倒れ、まとめて埋められたという訴えに対し、裁判所の決定のもと発掘活動が開始された。本日開始された発掘では人骨が数点見つかり、DNA検査を実施し、近親者のDNAと比較することが明らかにされた。
ホザト共和国検事のハサン・トイ氏を責任者として開始された発掘調査には、ホザト第51自動車化旅団司令部現場調査団、イスタンブル法医学協会より法人類学と法医学の専門家を各1名、さらに監察人としてコジャエリ大学のウミト・ビチェル法医学部学部長と、法医学専門のセミヒ・ユルドゥルム医師が参加する。

■20cmで掘ったところで人骨を発見

ホザト郡のカラプナル村セケ・スレ墓地で行われた発掘調査では、土を20センチ掘り返したところで人骨が発見された。発掘現場は遺族以外立ち入り禁止となった。発見された人骨はDNA検査を行い、近親者のDNAと比較し、結果が出たところで骨を遺族に引き渡すことが明らかにされた。
1938年当時7歳であった84歳のセヴィム・バランさんは発掘作業中涙をこらえきれなかった。バランさんは事件当日、2家族24名が人数確認と称して軍に集められ、殺されたと述べ、バランさん自身は寸前に出された司令により攻撃が中止し、一命をとりとめたと語った。

■「全員この地区で生きていた」

セヴィム・バランさんは事件当日を鮮明に覚えており、あの時起きたことすべての瞬間が頭によみがえってくるという。「全員この地区で生きていた、計24名だった。中には幼い子ども、赤ん坊、年寄もいた。ここに連れられたとき、小さな子どもがいたファトマが逃げ出した。そのとき、彼らはファトマの子どもを解放した。ファトマが子どもを連れ出そうと寄ってきたとき、兵隊が彼女を捕まえ、再びここに連れ戻して、撃ち殺した」と述べた。
バラン家とジャナン家の弁護士であるジハン・ソイレメズ氏は発掘作業と事件現場の証拠発見調査は国際法に則って実施されるとし、以下のように述べた:

「発掘作業は国際ミネソタ条約に則した形で開始され、実施していく。次々と人骨が発掘されており、その骨が細かいため入念に拾っている。骨の一つ一つにナンバリングが行われる。綿密な検査が必要な作業であるため、1~2日かかる予定だ。ホザト郡の職員から助けを頂いている。発掘される人骨は法医学協会に送られ、殺害状況も判明するだろう。年齢、性別、死亡日が特定される。調査が終了すれば、依頼人よりDNAサンプルが採取され、検察を通してDNA検査を行い、その後遺骨は葬式のために遺族のもとに戻される。その結果どうなるか、ここで殺害された人が子供や女性、年配者であることが判明する。それゆえ、暴動事件ではなく虐殺事件あったことが、科学的報告書で証明されるだろうと考えている。」
ソイレメズ弁護士は、発掘現場では大量の人骨が発見されたが、その多くが破損しているという。「次々と骨が発見されている。大量の骨が見つかっている。77年経った骨のほとんどは大きく破損している。」

■政府はこれらと向き合わなくてはならない

発掘作業が行われた現場に赴いたトゥンジェリ県のメフメト・アリ・ブル知事は次のように述べた。
「痛ましいアルメニア人殺害から100年目の年に、アルメニア人虐殺と向き合わない国として見られた。今また、我々はデルスィム事件と直面する分岐点に立っている。発掘のどの現場からも人骨が出てきている。政府はこれと向き合わなくてはならない。デルスィム事件はトルコ共和国の『黒歴史』であり、これと向き合わないままでは社会平和の実現は不可能だ。まず公式に、殺害があった他の地域でも発掘調査を平等に簡便化することが重要である。」

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( 翻訳者:小幡あい )
( 記事ID:37310 )