アルメニア・ディアスポラ、イスタンブルで1915追悼の行進
2015年04月25日付 Milliyet 紙


トルコの「ドゥルデ(Dur De)」という名の人権団体と手を組んだアルメニア・ディアスポラの人々が、1915年の事件から100周年を迎え、イスタンブルに集結した。

スルタナフメト広場に集まった集団は、エミノニュ桟橋に向かって「ジェノサイドの行進」を行った。フランスやドイツ、ベルギー、そしてアメリカで暮らすディアスポラだけでなく、本国アルメニアからも集まったこれらのアルメニア人らと、トルコからも参加した人権活動家らは、最初にエルマダーに集合した。

この集団は10時に、国外追放に見舞われた当時、最も有名であった作曲家のゴミダス氏や、Dr.アヴェニス・ナッカシュヤン氏らのジュムフーリエト大通り沿いにある邸宅前に集合した。1915年に国外追放されたアルメニア人の知識人らや、フラント・ディンク記者、そしてセヴァグ・バルクチュ兵士らの写真を掲げたこれらの人々は、さらに「1915年にこの家で暮らし、ここから追放された」と書かれたプレートと赤いカーネーションを捧げた後、Dr.ルペン・セヴァグ・チリンギルヤン氏の道向かいにある邸宅へと移動した。ルペン・セヴァグ・チリンギルヤン氏の孫であるレハン・サレリ・サルバイさんは会見で、「彼に向けてどんな形でも呼びかけることはできなかったし、抱きしめることもできなかった。その権利を私たちは剥奪されたのだ」と語った。

■刑務所に収容された人々の名前を読み上げた

エルマダーにおける追悼式の後、彼らはスルタナフメット広場へと移動した。1915年にアルメニア人の知識人らが収容された刑務所の建物であり、現在はトルコ・イスラム遺跡博物館となっている場所の前で集合した一団は、ここでも記者会見を行い、刑務所に収容された人々の名前を読み上げた。
この一団はスルタナフメット広場で行われた追悼式の後、エミノニュに向かって「ジェノサイドの行進」を行った。エミノニュ桟橋からは船のチャーター便で、1915年4月24日にアルメニア人の知識人らが集結したハイダルパシャ駅へ向かった。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:37378 )