オスマン朝時代のバイラムを再現すると…
2015年07月17日付 Radikal紙


■オスマン朝時代のバイラム、単純かつ面白い経済原則

マフムト2世の時代にアナトリア半島に3年間滞在したヘルムート・フォン・モルトケ元帥が1838年にマラティヤから出した手紙曰く「8 日後にあるバイラム(11月18~20日)は、我々にとって、まあおおよそイースターのようなものだ。喜びや陽気、お祝いと贈り物の祭りであり、この期間中に皆が贈りあう。基本的にトルコ人たちの原則は(受け取り、与えるという相互交換)すなわち(あなたも、私も良きように)である。これは本当にシンプルながら面白い、経済原則だ。社会のすべての階級が、最下層を除いて、これの恩恵を受ける。最下層はというと、法則の前半部分[受け取り]だけを享受する。このシステムについて提唱されうる唯一の欠陥は、その最下層階級が他のすべての階級全体よりさらに多いということである。」

■スルタン・アブデュルメジド、スルタンアフメト広場にて

フランス人の詩人、作家であるジェラール・ド・ネルヴァルは、1843年にスルタンアフメト広場でスルタン・アブデュルメジド1世が参加したバイラムの祭典を詳細に記している。

「スルタンが見えた。しかし馬が金の加工品やダイアモンドであまりにも覆われていたので、それを見た誰もが目をくらませていた。(…)スルタンは馬から降りて、 入り口の階段の上でスルタンを待っていたイマームたちやイスラム学者たちによって迎えられた。数多くの車が、広場に連なるようになっていた。コンスタンティノポリスのすべての選ばれた女性たちがそこに集まって、車の扉の仕切りの、金色の格子の後ろから祭典を見物していた。最上流階級の人々は、モスクの高いバルコニーに場所を取る特権を持っていた。(…)ポアチャ、砂糖入りのクリーム、揚げ物、人々がとても好む、パセリと種なしパンにはさんで食べる網焼きのラム肉で作ったケバブは、主要な重要人物たちによって、すべての人に無料で振る舞われていた。また誰もが家に入り、用意された食卓に加わることが出来た。貧しい者も裕福な者も、家をもつすべてのイスラム教徒は、神の客人であるすべての人を地位や宗教に関係無く出来るだけ歓迎していた。」

■宮殿の女性たちが見えると、軍人たちは後ろを向いて気をつけの姿勢

イギリス人作家のジュリア・パードーは1836年に客として邸宅で見物したバイラムの朝を描写している。

「朝、私はまどろみを香り付きの水で追いやって、コーヒーを小さな磁器のカップから一口ずつ楽しんだ。カップはそれほど小さくて、妖精ですらこれを飲むことが出来るくらいだった。」(…)「ダルプハーネ(造幣所)で高い地位にある、裕福なアルメニア人のダイアモンド商人が、私たちに壮麗な行列と式典の全貌を観ることが出来る窓を調整してくれて、私たちはその場所に向けて歩みを早めた。」(…)「偉大なる君主の臣民は、彼が通り過ぎる場所が見えるすべての通りに押し合いへし合いひ しめきあっていた。ヨーロッパ人の同伴者や召使いたち皆の努力にもかかわらず私たちが前進することは不可能だった。こんな状態だったので、このトルコ人の混雑が作りあげる新しく華やかな景色を容易に見物するために、私たちは混雑から少し離れたところを見つけて留まった。

遠くにアヤソフィアの巨大なドームと矢のようなミナレットがそびえていた。その下に、果てしなく、嵐の後の波のようにあふれては引く、フェス帽やターバンをつけた頭でできた海が広がっていた。すべての屋根、荒れ果てたすべての壁、すべてのゴミの山が熱狂的な聴衆で覆われていた。周囲の家の窓辺は、ベールを付けた女性たちと笑顔の子供たちでいっぱいだった。」

「偉大なる君主」マフムト2世のハレム(の女性たち)が式典会場に入るときの状況をパードーは以下のように書いている。

「車がゆっくりと、けたたましくたてたガラガラという音が聞こえていた。人びとにスルタンの女性親族たちが近づいているのが伝わった。突然、軍人たちが女性たちを待つ広場に背を向けて、武器を後ろに向けて精一杯伸ばした。つまり式典の進行を背後から行っていた。これは一団の軍人たちが演じる、おそらくはこれまで誰も見たことがないような、面白いステージであった!この窮屈で私の信じる限り困難な状況で、軍人たちは4台の車が通り過ぎるまで待っていて、その後元の姿勢に戻って、宮殿の行列が後ろを向くまで「休め」の形で小銃にもたれて待機していた。」

■祭典は前日の夜に始まる

オックスフォード大学の言語学者フリードリヒ・マックス・ミューラーは妻のジョージナ・アデレードとともに1893年にイスタンブルにいた。彼らの回顧録では祭典は前日の20時半、大砲と共に始まった。アブデュルハミド2世が7時に参加した式典はドルマバフチェ宮殿で行われている。

「スルタンはきわめて簡素な軍服を着ていた。頭にまったく壮麗な一団の着用するフェス帽がのっていた。腰に携えた先端が曲がった金の柄の剣のほかに、何の飾りの印もなかった。(スルタンらが)中に入った時、皆が地面に届くまで頭を下げてスルタンに敬意を表した。(…)スルタンは自身の近くにいる将軍たちが足元にひざまずくことを許可しなかった。彼らが彼の前でただ地面まで頭を下げていたのを、もう十分だと軽く手を動かして示して見せた。(…)バイラムの祝いの挨拶が終わったか終わらないかくらいに、スルタンは立ち上がり、そこにいた者たちは皆地面まで頭を下げながらスルタンに敬意を表した。しかしスルタンは全く誰も見ず、挨拶もせずに、ホールからガーズィ・オスマン・パシャと共に出て行った。ホールはごく短い時間空になった。我々は皆大変満足してあたかも我々を招くためにあったような、その魅力的な食卓の間に戻った。時刻はたしかに9時だったのだが、我々の大部分は5時ごろにすでに朝食をとっていた。」

■ローマで最も有名な祭りで行われているときのように…

セリム2世時代にイスタンブルに滞在したフランス人旅行家フィリップ・ドゥ・フレシネ-キャナイェの1573年のバイラムの、通りから見た印象(は以下のようなものだ)。

「昼にかけて、人々の熱狂を証明するために、宮殿から、トプハーネ(砲兵工厰)から、テルサーネ(造船所)から、―まるでローマで最も有名な祭りで行われているときのように―びっくりさせるように大砲が発射された。イスタンブルの谷や丘で恐ろしい騒音がにわかに起こった。まるでこの騒音を出すために世界中すべての大砲が同時に発射されたかのようだった。」

「街のすべての場所でウード、サズや他のトルコの楽器が響いている。ほぼすべての通りでフォークのような形の柱が立てられて、上から太いロープ(これらをフランス語でブランディロア(ぶらんこ)と言う)が揺れている。このロープの上に自分自身を委ね、空中に飛び上がることを望む人々は、手慣れた3人か4人の若者の手を借りてその望みを実行し、空中で揺れるのに疲れたら下に降りる。若者たちは彼らにオレンジの花、バラ、糸杉の花のシェルベットを出し、彼らはそれを飲んだ後そこから離れる。」

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(翻訳者:伊藤梓子)
(記事ID:38208)