臓器移植~意図的自殺か、それとも貧困による現象か(2)
2015年09月09日付 Jam-e Jam 紙

---こうした行為の裏にはどのような動機があると思いますか。

臓器を売る行為で最も一般的な動機は、売り手個人の経済的な困窮にあるように、私には思われる。そのような中にあって、その他の諸要因や動機も、ここ10年間の国内における臓器取り引きの急激な増加の原因となっている。

〔例えば〕特殊な病気、中でもガンの罹患数が増加しているといった要因である。実際、国の「ガン総合センター」はこの病気の罹患数の急激な上昇をもって、「ガンの津波」と名付けている。このような「津波」の原因については、私の議論とは無関係ではあるが、しかしこういった要因が臓器の需要と、それに伴った供給が増加した根本的な原因の一つなのである〔※ママ〕。

イランにおける腎臓病患者の増加も、腎臓移植の需要が増えた、もう一つの重要な要因である。イランではもっとも一般的で、もっとも多く行われている臓器移植である。

さて、経済的な要因についてである。肉体の各部位は、一個の人間が完全に自らの意志によって、全面的な支配を及ぼすことのできる唯一の財産であり、いかなる法的権威も、肉体に対する人間の支配権を、自らの支配下に置くことはできない。

貧困が蔓延し、貧困ライン以下で生活する人の数が増えたこと、ここ20年間で大学の卒業者数が無秩序に増えたこと、〔‥‥〕そしてその結果として社会の若者層の間で失業が増加したこと、これらのことが臓器、中でも腎臓(腎臓は体内に2つあるため)や肝臓などを売る広告の数が、病院や治療施設などの周辺で増えた原因となっている。

現在、手元にある統計によると、腎臓は破格の値段で売られている。このことが、腎臓の闇取引市場をブローカーらにとって活発なものとしているのである。

臓器販売の増加という現象にとって、経済的状況をその原因とみなすことは、この問題について指摘することのできるもっとも簡潔な分析であるが、同時にもっとも現実に即したものでもある。というのも、その他の諸要因を考え合わせると、〔臓器提供行為には〕「寄付」という意味がすでに失われていると思われるからだ。

ここで、19世紀の有名な社会学者エミール・デュルケムの「自殺論」について、簡単に検討したい。デュルケムが「利己的(自己本位的)自殺」と「利他的(集団本意的)自殺」と名付けた自殺の種類は、この問題を検討する際に意味があるように私には思われる。もし「自殺」を「命の終わり」の意味と取らないならば、であるが。

彼の見解によると、利己的自殺は、社会の中に連帯・統合を生みだすような諸要素が色褪せた時に起こる。人は自身が社会とつながっているという感覚を失い、個人主義的に自らの破壊を決意する。

これに対して、社会学者エミール・デュルケムの言う利他的自殺は、社会の人々の間でこの統合やつながりが色濃くなり、人が〔社会との〕一体感を強め、そのために意識的に自らの存在を他者や集団に捧げるときに増加する。

臓器の寄付(提供)は、利他的な(死ぬという意味ではない意味での)「自殺」であり、対称的に臓器の販売は、利己的な(先ほどと同じ意味での)「自殺」であるように、私には思われるのである。


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( 翻訳者:TM )
( 記事ID:38715 )