アンカラ犠牲者、各地で悲しみの葬儀
2015年10月12日付 Hurriyet 紙
犠牲者の一人、ディジレ・デリさん
犠牲者の一人、ディジレ・デリさん

アンカラで行われていた「労働、平和、民主主義」集会の前に起こったテロ攻撃で、その命を落とした犠牲者たちが最後の旅路へと旅立っていった。法医学協会の前へ、トルコ国内中からやってきた遺体搬送車が、犠牲者たちを乗せてそれぞれの故郷へ運んで行った…。

テロ攻撃で命を落とした人々の遺体は法医学協会から引き取られ、それぞれの故郷からくる遺体搬送車によって最後の旅路へと旅立っていった。

■「お父さん、僕の声が聞こえる?」

アンカラの「労働、平和、民主主義」集会で発生したテロ攻撃によって命を落としたHDPゲブゼ郡運営委員メンバーのズィラ・サイグンさんはシヴァスの中央にあるドュゾヴァ村で最後の旅路についた。

アンカラで発生したテロ攻撃で命を落とした既婚者で二人の子供の父親であったズィヤ・サイグンさん(56)の遺体は、故郷であるスィヴァスの中央にあるドュゾヴァ村へと運ばれた。ドュゾヴァ村のジェムエヴィでサイグンさんのための葬儀が行われた。葬儀では、サイグンさんの子供たちのディラン君、タイラン君、妻のセマさんと共に近親者が、涙を流しながら、その死を嘆き悲しんだ。葬儀で、弔辞が読み上げられると、スローガンが叫ばれた。さらにのちに、サイグンさんの遺体は、ジェムエヴィから、肩に担がれて運ばれていった。葬儀の礼拝の前にズィヤ・サイグンさんの子供たち、ディラン君とタイラン君が父親の棺桶を抱きしめながら長い間、涙を流した。

高校生であるディラン・サイグン君は父親の棺桶の前で、「お父さん、僕の声が聞こえる?」と言って、号泣した。葬儀の礼拝の後でズィヤ・サイグンさんの遺体は、 トラクターで村の墓地へと運ばれて、埋葬された。葬儀にはCHPのスィヴァス県選出のアリ・アクユルドゥズ議員、市民団体、そして政治政党の代表者たち、そして市民たちが参列した。
 
■父ファイク・デリ:娘の血は、平和の犠牲となりますように

アンカラでの爆弾攻撃でその命を落とした17歳の高校生ディジレ・デリさんは、シリヴリカプ・モスクにおいて、昼に行われた葬儀の礼拝後シリヴリカプ墓地に埋葬された。葬儀で、ディジレ・デリさんの親族、友人、CHPとHDPの国会議員たち、ムスタファ・サルギュル元シシュリ区長、バクルキョイのビュレント・ケリモール区長と多くの人々が参列した。バクルキョイ区の行政警察官である、ファイク・デリさんは、モスクの前で弔問客の一人ずつに対応し た。

■「名前のように流れて行ってしまったね、ディジレ」

ディジレ・デリさんの棺桶の傍での姉妹たちの嘆きは、聞くものの胸を切り裂いた。姉の一人が、「あなたは名前のように、流れて行ってしまった」という言葉で、聴衆皆は涙を流した。
少女の葬儀は、ファーティフにあるシリヴリカプ・モスクの中で行われた。ここで昼に葬儀の礼拝が行われた。礼拝の後で、ディジレ・デリさんの棺桶は、女性たちの肩に乗せられて、シリヴリカプ墓地へと運ばれて、遺体が埋葬された。

■「娘は私の50メートル後ろにいた」

葬儀の間に報道関係者たちに話をした、父親のファイク・デリさんは、「私たちはここから、娘と一緒に出かけたのです。朝の10時ごろに行列が行進をし始めた ころ、私は行進の一番先頭にいました。娘も私の50メートル後ろにいたのです。私は彼女のそばへ行こうとしていました、私が友人たちと挨拶を交わしているときに突然、爆弾が爆発したことに気が付きました。私の娘の血はこれから先のプロセスにおいての平和への足掛かりとなりますように。平和への犠牲となりますように。私たちのことを殺しても私たちの平和、民主主義そして自由への呼びかけを止めることはできません。このことが理解されなくてはなりません、私たちからどれだけの人々が殺されようと、それでも私たちはこの呼びかけをし続けます。」

■「美しい我が子よ、起きて。一緒に家に帰りましょう。」

アンカラでの爆弾テロ攻撃で命を落とした97人のうちの一人41歳のギョクメン・ダルマチュさんの遺体は、故郷のトラブゾンで、涙に包まれつつ埋葬された。ト ラブゾンに昨晩運ばれたギョクメン・ダルマチュの遺体は、死体安置所に安置されていた。一時期、教育労働組合トラブゾン支局事務局長、黒海工科大学学生課長として勤務していたことが明らかにされたギョクメン・ダルマチュさんは数年前にイスタンブルに引っ越してきて、そして民間企業で働いていたことが分かった。

ギョクメン・ダルマチュさんの遺体は、昼の礼拝の前に、トラブゾン・イスケンデル・パシャ・モスクへと運ばれた、結婚して一年の妻、フィルデヴス・ダルマチュさんそしておばのギュナイ・セミズさんは、ダルマチュさんの棺桶に抱きつきながら、号泣した。母親と父親を小さいころに亡くしたギョクメン・ダルマチュさんを育てた、おじの妻であるギュナイ・セミズさんは、「美しいわが子よ、起きて、一緒に家に帰りましょう。私はあなたをトラブゾンから、こんな風に送りだしてしまったのかい?」と言って、嘆き悲しんだ。 

事件の瞬間に、アンカラ駅前にいた人々のうち、公務員労組(KESK)トラブゾン支局長であったムハメット・イキンジ氏も報道関係者に対して行った発表において、「トルコ中から友愛と平和を求めてその声を世界中に届けることを目指した人々に対して、冷酷な殺人が実行されました。この土地の苦しみに疑問を投げかけた子供たちを、私たちは葬るのです。しかしそれでもなお友愛を、平和を守り続けることが必要です。一つの国がもし国土に生きる人々の生存権を構築できないのだとすれば、憲法上の権利を行使することにおいて必要な環境が整っていないのであれば、そこには欠点が存在する、ということです。この構図は、そこに治安の欠陥と、怠慢が存在するということを示しています」と話した。

昼の礼拝の後で、行われた葬儀の礼拝へ、元大臣たちのうち、AKPのファルク・ナーフィズ・オザク氏、CHPトラブゾン県選出のハルク・ペクシェン議員、トラブゾンのAKP党員のオルハ・フェズヴィ・ギョムリュクチュオール広域市長とダルマチュさんの近親者、友人、そして家族が参加した。ダルマチュさんの遺体は、礼拝ののちに、拍手とともに、遺体搬送車に乗せられて、埋葬されるため、ボスタンジュ街区の家族の墓地へと運ばれた。

■「甥は集会には参加しなかった。」

アンカラ駅前交差点で起きた爆弾テロで命を落とした、ギョクハン・ギョクビュルさん(18歳)の遺体は、アダナのジェイハン郡で埋葬された。葬儀には、CHPアダナ県支部のギョクハン・ヤー代表、CHPの ジェイハン郡支部のカーディル・アイダル代表、そして多くの市民が参加した。ビュユケクシマングト街区の実家に運ばれたギョクハン・ギョクビュルさんの遺体はここでコーランの朗誦と礼拝が行われた後にユランカレ街区にある墓地に埋葬された。

おじのメフメト・ギョクビョルさんは、ギョクハンさんはミーティングに参加したわけではなく、観光目的で向かったと述べつつ、「(デモ行進があっても)端で立ち止まってやり過ごすからといって、彼は許可を取ったのです。彼は、そこには集会に参加するために行ったわけではないのです。私の甥は、私たちの子供は。皆、私たち兄弟であり、子供なのです、アッラーよ、どうかもうこれ以上苦しみを与えることがありませんよう。皆に神のお慈悲がありますように。私は誰も責めることができません」と話した。やはり、おじの・ジェマル・アルジュさんは、「私は彼に電話をかけたのですが、二回とも返事がありませんでした。三回目に私が電話を掛けたときに、一人の女性が出たのです。そして彼が手術を受けているといいました。私は彼の父親に電話をかけて一緒にアンカラに向かいましたそこで、知ったのです。彼が、死んでしまったということを」 と話した。

■「言いたいことはたくさんありますが・・・・」

アンカラでの自爆テロによってその命を落とした20歳の大学生、エリフ・カンルオールさんは、故郷であるアルトヴィンのアルハヴィ郡で埋葬された。アンカラでの爆弾テロで命を落としたメルスィン大学の教育学部二年生のエリフ・カンルオールさんは、故郷であるアルトヴィンのアルハヴィ郡で行われた葬儀の礼拝の後 で、イェムシリキ街区にある一族の墓地に埋葬された。

アルハヴィ・イェニ・モスクで昼の礼拝の後で行われた葬儀の礼拝の前にカンルオールさんの父親のウミトさん、母親のオズヌルさんそれに兄のエムレ・カンルオールさんが 弔問客を迎えた。周りの郡と県から多くの人が加わった葬儀の礼拝にはCHPのウール・バイラクトゥタン議員も参加した。HDPは、葬儀へ、「殺人者は、敗北する、平和が勝利する」と書かれた花輪を贈った。 

爆弾テロによって命を落とした若い少女の父親ウミト・カンルオールさんは、平和の維持を求めるとともに、「この恥辱は死者のものではありません。この恥辱は殺した人間のものであります。彼らはどれだけ血を流そうと満足することがありません。彼らはこの国が平和になることを望んでいないのです。平和を望む人々はここにいます。平和を望まないものたちは子供たちにさえ、同情しないのです。彼らは小さな子供たちを殺します。今日は、私たちが嘆き悲しみました。明日は誰が嘆き悲しむのかわかりません。我々は、誰も悲しまないことを祈ります。私の娘は、平和を願ってそこにいたのです。誰も命を落とすことがありませんように、と願ってそこにいたのです。私の娘のすぐ近くでチェルケズ人たちが命を落としました。クルド人が死にました、トルコ人が死にました。子供たちが殺されました。平和を望んでいた人々が死にました。こんなことは、もうたくさんです。この声がどうか届きますように。いい言いたいことはたくさんあります。たくさんの言葉がありますが、苦しみの中、言えることはこれだけです」と述べた。葬儀の間、少女を愛していた人々は号泣した。少女の遺体は葬儀の礼拝の後でイェミシリキ街区にある家族の墓地へと葬られた。

■ヴェイセルの学校で悲しみ

夜中に、大きな車列によって、ゲルジュス郡に運ばれた、父親と息子の葬儀には、何千人もの人々が参列した。彼らを愛した人たちそして近親者が、精神的なショックを受けた葬儀の前に、父親と息子の遺体が、チャルシュ・モスクへと運ばれた。

ここでの、葬儀の礼拝の後で二つの遺体が墓地に運ばれる際にイブラヒム・アトゥルガンさんの妹のファトシュ・アトゥルガンさんは、「兄が死んだなんて信じられない。お願いだから、私に彼の姿を見せて」と言って平静を失った。112救急隊員の処置によってアルトガン一家の近親者は落ち着きを取り戻した。さらにのちに宗教儀礼の行われる場所に運ばれてから、イブラヒム・アトゥルガンさんと息子のヴェイセル・アトゥルガン君の遺体は涙の中でクルド語の弔辞とともに、埋葬された。

5年前に、トルコ国鉄ディヤルバクル支局に勤務している際に、子供たちがより良い教育を受けられるようにとアンカラへの異動を願い出た運送業労働組合のメンバーでもあったイブラヒム・アルトゥガンさんとともに、爆弾テロによって命を落とした息子の9歳のヴェイセル・アトゥルガン君のためにバトゥケントにおいてキュル サド・ベイ小学校で追悼集会が行われた。

幼いヴェイセル君は、10月10日の朝の集会に参加するために朝早く起きた、父親の手を握りながら準備が行われていた駅前交差点へと向かった。彼は、初めて集会に参加することをわくわくしながら待っていた。この冷酷な攻撃は、彼と父親とを一度に捉えた。45歳だったイブラヒム・アルトゥガンさんと9歳の息子のヴェイセル・アルトゥガン君は、故郷のバトゥマンのゲルジュス郡で、隣り合って埋葬された。幼いヴェイセル君を悼むため今日学校で追悼集会が開かれた。学校の入り口で、全校生徒の襟に小さなヴェイセルの写真が付けられた。ヴェイセル君のようにまだ8-9歳である友人たちは彼を失ったことで、深い衝撃を受けた。黙とうと独立行進曲によって始まった集会へは、ヴェイセル君の担任であるセバハト・ユルドゥルムさんが知らせを受けるや否やペンをとった手紙が読まれた。手紙をやっとの思いで読み上げたユルドゥルムさんは、今まで行ったスピーチの中でも一番辛いものであると述べた。ユルドゥルムさんは、幼いヴェイセル君に向けて読み上げたスピーチにおいて、以下のように述べた。 

■「私たちは君から教えてもらった」

「私は、どう言葉を始めればよいのかわかりません。今まで私が行った最もつらいスピーチです。アンカラの中心で、平和を求めて集まった人々へ行われた冷酷な攻撃がもたらした苦しみが、波のように私たちの国中を襲っている中、大変に悲しいことに私たちの学校もその苦しみに捕らわれました。私たちの全員に、言い表せないほどのトラウマをもたらした突然の攻撃で失った幼いヴェイセル・アルトゥガン君へと呼びかけたいと思います。彼は私たちのことをどこからか見ているに違いありません。親愛なるヴェイセル君、あなたは平和のお祭りだと思って家を出たのに、バラバラの遺体となって帰ってきたのね。私たちの悲しみは言葉にできないほど大きなものです。彼の微笑む緑色の美しい目はもう授業をみることができません、読むことも、書くこともできません。

友達と一緒に私は君のことを忘れることは絶対ありません。あなた達が成長する姿を見ること、将来にこの国を突き動かす力になり、かつ正義、平和、人類、そして素晴らしい時代を突き動かす人になることを私が望んでいたことをあなたもきっと知っていたでしょう。でも君は、平和を叫びながらこのことを9歳で実行してしまいました。私たちは君から教えてもらいました。君のこの先の道が光で満ちたものになりますように。私たちは君のことを決して忘れはしません。」生徒たちは、さらにそのあとで、教室へと戻った。3/Aクラスの、そこに座ることが好きだった、窓側の席に写真と、カーネーションが置かれた。クラスの友達と教師は、この瞬間、涙を抑えることができなくなっていた。

■弁護士になりたがっていた

熱狂的なフェネルバフチェ・ファンだったヴェイセル・アルトゥガン君が命を落とす前の最後の映像がカメラに映し出された。弁護士になりたいといっていた幼いヴェイセル君は、家族に、自転車、タブレット、パソコンをせがんでいたという。

■クルチダオール党首は弔問のためにマラティヤに

CHP党首のケマル・クルチダオール党首は。アンカラの自爆テロ攻撃で命を落とした、郡の青年支部会員の家族を弔問するために、マラティヤへとやってきた。
マラティヤ・エルハチ空港で新聞記者たちの質問に答えたCHP党首ケマル・クルチダオール党首は、内務大臣と法務大臣に関して辞任要請を繰り返した。

クルチダオール党首は、「アフメト・ダヴトオール首相にも話をしました、世論にも共有されましたが、この事件は、共和国の歴史で最も痛ましい事件です。この事件の 一つの政治的な責任が問われる必要があります。『対策をとっていました』と言いますが、あなた方は、いったいどこで、対策をとっていたのですか?爆発が起きた場所ではなくて、ほかの場所で、予防策がとられていたわけです。これほどに偏狭にものを考える人が大臣のイスに座っているというのは間違っています」と話した。

クルチダオール党首は、さらにのちに、テロで命を落としたCHPのマラティヤ青年支部会員だったエレン・アクンさんの、中心部にあるイェシルユルト郡に暮らす家族を訪問した。

■ユルマズとギュルハン・エルマスジャンの親族に精神的ショック

アンカラで起こった爆発によって、妻のギュルハン・エルマスジャンさんとともに命を落としたユルマズ・エルマスジャンさんは、故郷であるシャンウルファのスルチ郡に葬られた。スルチ国立病院にやってきたエルマスジャンさんの親族は精神的なショックを受けた。母親のネスリハン・エルマスジャンさんは親族の支えによってどうにか立つことができた。

遺体安置所へ搬送された遺体は、スルチ郡墓地へと運ばれた。何百人もの人々が参加した葬儀で、スローガンに合わせて、スルチ墓地へと運ばれた。ここでの礼拝の後で遺体を埋葬する際に母親と父親は、棺桶を抱きしめながら、涙を流した。同じ爆発で命を落とした妻のギュルハン・エルマスジャンさんは、コンヤで埋葬されたことが伝えられた。ユルマズ・エルマスジャンさんとギュルハン・エルマスジャンさんは約一年前に結婚したことが伝えられた。

■「もう二度と帰ってこない」

アンカラで発生して命を落とした97人の間にいたHDPアンタリヤ県ガーズィパシャ郡支部のニヤーズィ・ビュユクスュッチュ共同代表は、故郷であるボルのムドゥルヌ県郡で埋葬され た。ムドゥルム郡サルイェル村で、昼の礼拝の後に行われた儀式で埋葬されたニヤーズィ・ビュユクスュッチュさんの葬儀で、彼と同様に元教師である、妻のエミネ・ビュユクスュッチュさんの嘆きに、人々は心を痛めた。夫が埋葬された際に精神的ショックを受けたエミネ・ビュユクスュッチュさんは、「もう二度と帰ってこない」と叫んで、号泣した。ビュユクスュッチュさんを近親者は、どうにか鎮めた。

一方で、ビュユクスュッチュ夫妻が、アンカラでのミーティングへ一緒に行くことを計画していたが、エミネ・ビュユクスュッチュさんは足の痛みが原因で、最終的に参加を取りやめたことが分かった。夫と一緒にアンカラに行けなかったために大変悲しんでいるエミネ・ビュユクスュッチュさんは、夫の棺桶のそばで、「私も一緒に行けていれば」といって号泣した。爆発で命を落とした、ニヤーズィ・ビュユクスュッチュさんの遺体は、涙の中で埋葬され、妻のエミネ・ビュユクスュッチュさんは、近親者の手助けでどうにか立っている様子が見られた。

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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:38898 )