Oral Calislar コラム:クルド人の選択―HDPからAKPへ流れたクルド票の意味
2015年11月03日付 Hurriyet 紙

6月7日の選挙でHDPが高い得票率で国会議員を送り出したいくつかの県について、11月1日選挙の結果と比べてみた。

その結果:

ディヤルバクルで、HDPの票は79.8から73.6におちた一方、AKPは、13.9から21.1に増えた。同じような状況は、東部のほとんどすべての地域で見られる。県ごとにみていこう。

ムシュ県 HDP:71.6→62.8、AKP:23.9→33.5
ビトリス県 HDP:60.8→50.3、AKP:31.0→43.5
ハッキャーリ県 HDP:87.5→83.9、AKP:8.4→12.0
ヴァン県 HDP:78.4→66.5、AKP:16.9→29.6
アール県 HDP:78.8→68.9、AKP:15.9→26.7
ウードゥル県 HDP:57.2→52.9、AKP:10.8→30.9
カルス県 HDP:44.6→35.3、AKP:26.7→35.7
シュルナク県 HDP:85.1→86.2、AKP:9.1→10.6
バトマン県 HDP:73,2→68.4、AKP:18.0→28.3
ウルファ県 HDP:39.1→30.3、AKP:46.8→63.7

HDP票が多数でたこの地域の都市部でも、有権者が、HDP票の平均5分の1をHDPから取り戻し、AKPに投票したといえる。

■HDPへ、レッドカード

この状況を、東部の友人とSNSでやり取りした・・・・。私が彼に「クルド人がこの結果を決めたのだ」とのメッセージを送ると、彼からの返事がこうだった。「たしかに、これが社会だ。HDPにレッドカードをだしたのだ。我々は平和を求めている。悪事は、誰がやろうと、それには反対する。そして、そのとおりになった。」

このメッセージをくれた友人は、長年にわたりHDPのための闘い、家族全員がこのグループに属している人物だ。彼にも書いたように、この結果は、元来はある意味でPKKが決めた。HDPが高い得票をえた町ではじめられた、いわゆる「自治」は、地元の人々にとって、一種のドラマと化していた。

■武器か平和か

「自治」の件について書いたコラムで、何をするつもりかまったくわからないと書いたことがある。

「80人の国会議員をもち国会内に会派をつくっている政党があり、国内で対話と交渉の可能性が広がっているときに、権利の獲得には武器が必要だというものたちを理解できない。
現時点では、原則的な決定が必要だ:政治に対し、暴力と武器は、合法・正当たりえるのか?もっと具体的に言おう:PKKの最近の暴力・テロは、クルド人に益をもたらすのか?焼き払われ、破壊された町、教育を奪われた若者、経済的・社会的な崩壊、失われた命・・・・。こうした喪失に対し:クルド人あるいはトルコ人の名のもとに、「左翼的価値観」、または「人間としての価値観」の名のもとに、いかなる益が生まれる可能性があるのか?」(2015年8月22日)

PKKの「自治」の実施だけでなく、道に地雷をうめ、市民も巻き込んだ爆弾テロが、一瞬にして地域を燃え盛る火のなかに陥れたとき、社会では、大きな反発が生まれた。

■MHPは「解決なし」のシンボル

危機と応戦のなかで解決策を求める社会の前で、「解決をもたらさない」ことのシンボルとみなされたMHPと、東部で暴力の激化に対し、ある意味でただ与党だけに責任があるという態度をとったHDPは、結果して無力化し、政治の外側におかれることになった。この状況の前に、クルド人の一部は、クルド人アイデンティティ故に条件付きで支援をしていたHDPから、こうした事態をうけ、支援の一部を撤回した。11月1日に、MHPとHDPが、ほど同率で(もちろん、MHPの喪失の方が数的には大きい)票を失ったことは、こうした反発の結果と読むことが出来る。

■テストの結果

PKKによる「自治」の試みを、このコラムで、一種のテストだと書いたことがある。PKKのカンディル本部は、クルド人、そして国を試していた。果たしてクルドの人々はこの試みを支持するか?国家は、「それならそれでいい」と認めるか?
しかし、この試みは、クルド人に対し、将来や生活の向上に向け、何らかの希望をもたらすことはなかった。抑圧、貧困、死、破壊以外には、何も出てはこなかった。この地域の人々が、どれだけの困難と苦しみと直面しているかを、この地域の友人らから何度も聞いていた。

トルコ共和国の立場からみると・・。このやり方は、受容不可能な試みとみられた。国家は、自分たちの法が無視されるような事態を認めない。

解決策の必要があったのだ・・・。一方では、デヴレト・バフチェリが(連立政権の申し出に)「いやだ、いやだ」と言い続けている間、PKKの行動に怒りを抱く民族主義的な票は、MHPからAKPに向かっていた。

結果として、PKKのテストの結果、「自治」は成功しなかった。しかし、ダヴトオールには与党が転がり込んだ。クルド人は、アイデンティティと民主主義を求めて国会に送り込んだHDPには、暴力に対し、もっと明確なノーの態度を求めていた。クルドの人々は、国会ではなく、「自治」実施の袋小路の中で希望もなく留め置かれることを望まなかった。解決プロセスの外側におかれることを、納得しなかった。それゆえ、HDPに渡していた手形の一部を、引き上げたのだ。

トルコのこの直近の選挙で、我々の運命を決めるもっとも重要展開が、南東アナトリアで起きた。クルドの人々は、結果に対し、ある面で、主役を演じた。

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:39087 )