Murat Yetkinコラム:5年前、5か月前、5週間前のトルコ・・・
2015年12月17日付 Radikal 紙

我々はこれから5日間の間にいい知らせを受け取ることができるだろうか。

5年前、2010年の終わりには、トルコ外交の唯一の問題は、イスラエルとの関係だった。イスラエルの部隊がマーヴィ・マルマラ号を急襲し、9人のトルコ国民が殺されたことで、関係はどん底に陥った。

しかし、その前までトルコは、イスラエルやシリアとの間で調停役を行っていた。

5年前、イスラエルを除くと、公正発展党(AKP)政府の「近隣諸国とのゼロ・プロブレム」政策は、アタテュルクの「国内に平和、国外に平和」の政策の派生であるかに見えた。

イスラエル以外は全てが順調に見えた。

アンカラ政府は、当時、長年続けてきたイラクのクルド自治政府を無視する政策を終え、さらに、アルメニアとの関係正常化の方向で議定書にもサインしていた。

ロシアとは次々にエネルギー、観光、貿易の合意が結ばれている。トルコが上海協力機構に入る必要を唱える者も現れた。

EUとの関係は最もいい状態ではなかったが、まだ凍結状態ではなかった。

アメリカのオバマ大統領は、その一年前、任期開始後初めての外遊先をトルコに選び、世俗的民主主義と自由主義経済をもって、トルコを他のムスリムが居住する諸国の模範として示していた。

イランの核合意のために、トルコは(ブラジルとともに)尽力した。何れにせよ、長いブランクの後、国連安保理の非常任理事国として二年の任期で選出されていた。

イラク、リビアでの建設業は再び輝き始めた。

当時の首相、現在の大統領であるタイイプ・エルドアン は、シリア政府と共同閣僚会合を開いている。「兄弟」と呼んだバシャール・アサドと家族ぐるみで休暇に出かけていた。

アラブの春がチュニジアで勃発するまでもう僅かだった。

チュニジアでの事件から少し経った後、リビア、イエメン、バーレーン、エジプト、そして最終的にシリアに広がり、(チュニジア以外は)民主化の方向ではなく、更なる抑圧、クーデター、混乱、そしてついには内戦に達するとは、最初の頃に予期できた人はほとんどいなかった。

アメリカのイラク進攻に参加しなかったことを誇ったトルコは、初期にまだこの騒動のどちらかの側にも立たないという姿勢を守っていた。

5か月前、7月にトルコはアメリカとの間で国内のインジルリキ基地を「イスラム国」に対する空爆に使用することを認める協定に署名した。

「イスラム国」は、シリア内戦の中で 2013年に建国を宣言し、短期間でイラクとシリアの両方の1/3を占領した組織であった。

彼らは、その一年ほど前、2014年6月にトルコのモースル領事館を占領し、数か月後には、今年の11月1日に選挙でCHPの国会議員に選ばれることになる大使ら49人を人質とした。

インジルリキ基地使用の合意に署名した日、「イスラム国」はスルチで34人を殺害した。数ヵ月後、アンカラで103人が殺されることになる。

しかし、安全保障上の問題は、「イスラム国」のみではなかった。PKK(クルディスタン労働者党;非合法)は、シリアのコバーニーでの「緩衝地域[構築]」の例をトルコ国内でも実行しようと意図し、自らの勢力を誇る居住地域で今日の「塹壕政治」を、人民の民主主義党(HDP)が総選挙で得た結果に影を落とす形で実行した。

PKKとの間接対話を通じてクルド問題の政治的解決を計るAKP政府の模索は、3年後には再び攻撃と戦闘の開始と相成った。

トルコは、「イスラム国」占領下のモースル解放のために、イラク人達に軍事訓練を行うのを認めたが、テヘランの影響下にあるバグダード政府との関係は壊れていった。

そんな中、イラクの大使館はなおも業務を行っていた。というのも、トルコは、イスラエルのみならず、シリア、エジプト、リビアのようなムスリム諸国でも在外公館は 残っていないからだ。

それでも、インジルリキ問題でトルコはシリアの将来を議論するウィーン会議の4つの主要国の一つになることができた。他の参加国はアメリカ、ロシア、サウジアラビアになるはずだった。

5週間前、トルコはまだアメリカの飛行機とともに、シリアに駐留するロシア空軍力にも関わらず、「イスラム国」の領域に襲撃を行うことができていた。

アンカラはまだ、[トルコの]キリス国境に並ぶ、シリア国境沿いに幅98kmにわたって、シリアの領内に40kmほど入った地域を、「イスラム国」とアサド双方と闘う人々の基地として使用し、状況が整えば難民がシリアに戻るための安全地帯として用いようと、アメリカの協力を受ける希望をもっていた。

まだトルコのF-16飛行機は、国境を侵害したためロシアのSU-24飛行機を撃墜していなかった。

まだ、ロシアのウラジミル・プーチン大統領は、タイイプ・エルドアンを個人的な標的としていなかった。以前に取り決めていた国家間会合を一つずつキャンセルし始めていなかった。

まだアメリカも、ロシアも、シリア国境における98kmの地域を「イスラム国[戦闘員の]」流入の嫌疑を解消するため閉ざすよう明確に求めていなかった。

まだイラク政府は、モースル付近のバシカ教育キャンプから「イスラム国」とPKKの脅威に対し強化を求めるトルコ政府に対し全兵撤退するよう要請していなかった。

まだ「イスラム国」はそのキャンプを攻撃していなかったし、トルコ軍はイラクの土地で「イスラム国」と戦闘せざるを得ない状況にはなかった。

これから5日間で、いい知らせを受け取ることができるだろうか?

数年後、トルコ首相であるアフメト・ダウトオールは、「加盟候補」である立場でEU首脳からトルコの顔をもう一度中東の沼地から西側に仕向けると言うよい知らせをもたらすことができるだろうか?

少しよいニュースを、ここまで必要としているのだ…。

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( 翻訳者:矢加部真怜 )
( 記事ID:39422 )