Fuat Keyman コラム:市内戦とふたつのディヤルバクル
2015年12月23日付 Radikal 紙

二つのディヤルバクル。
一つは市内戦とPKKの舞台で人民の民主党(HDP)が機能しない場所。
もう一つは、日常生活の中でHDPに高い期待が寄せられる場所。
今やPKKはHDPとの関係について決断を下すべきである。


私はディヤルバクルで、現地の人々の話を聞いている。
皆、恐怖と不安と心細さを感じている。同時に怒りや苛立ちを抱え、うんざりしている。

廃墟と化したスル(訳注:ディヤルバクル県内の市の名前)からは住民たちが逃げ出している。
ジズレでもそうだ。私はジズレには行っていないが、様子を見ると似た状況であることが分かる。
我々の新しい概念で言うところの「市内戦」の舞台となってしまった他の街からも、人々の同じような姿、同じような叫びが届いている。

ディヤルバクルには、住民たちの心を絶望と悲しみで覆うスルの一つの現実と光景がある。
しかし、スルはかならずしもディヤルバクルの全てを象徴しているわけではない。
スルの市場を離れると、ディヤルバクルのもう一つの姿を目にすることになる。
それは大通りや高い建物、広々とした喫茶店とレストラン―しかもガラガラではなく大賑わいの―がある、
「日常生活が連綿と営まれるディヤルバクル」だ。

街の一方には、塹壕や衝突、死があり、衝突に挟まれ移住を余儀なくされた人々がいる。
廃墟と化した土地と、悲しみに暮れる人々の顔がある。
街の他方には、いつも通りの生活が続く別の光景がある。
一方には貧困、他方には中流階級。
一方には塹壕、他方には新しい道路。
一方には衝突、他方には日常生活。
二つのディヤルバクル、二つの生活、二つの光景。

市内戦とはこのようなものだ。
これは新しい現象である。
1990年代は終わり、二度と戻らない。
もうあの時代、あの場所に帰ることはできない。
我々は新しい現象に直面している。
市内戦、それがその名前である。市内戦は、山岳戦とは異なる。
アイデンティティ、階級、疎外を土台に起きる戦争である。
都市の一角で発生するが、同じ都市の他の場所では日常生活が続けられる。

スルやジズレや他の街で我々はクルド問題だけを話題にしているわけではない。
我々は、この問題が内包する深刻な格差、つまり主に貧困層について、そして彼らの苦しみ、疎外感、余儀なくされた移住について、話している。

さらにこのことも強調しておきたい。
ディヤルバクルでは、HDPの得票に強い影響力がある。
「二つのディヤルバクル」の双方において、HDPへの強力な支持が選挙結果に表れている。
ディヤルバクルや周辺地域において、貧困層も中流階級も、HDPに投票している。
しかしながら、スルでHDPは話題にならない。スルにHDPは不在である。
スルではPKKが話題になる。衝突の当事者であるPKK。
PKKは、市内戦を、塹壕戦を、地域支配/統治もしくは民主的自治の名の元に実行している。

ひとたびスルを離れ、ディヤルバクルのレストランや喫茶店や大通りに行ってみれば、PKKよりもHDPが話題に上っているのが分かる。
ここではHDPのトルコの政党としての性質が重要視されている。
HDPを支持する中流階級の大多数が、「解決プロセス」への回帰と、PKKではなくHDPの活躍を望んでいる。

二つのディヤルバクル。
一つは市内戦とPKKの舞台で人民の民主党(HDP)が機能しない場所。
もう一つは、日常生活の中でHDPに高い期待が寄せられる場所。
今やPKKはHDPとの関係について決断を下すべきだ。

PKK-HDP関係の不和や曖昧さは、政治的問題であるだけではなく、貧困層のクルド人をはじめとするクルド人全体に対して大きな損害となっている。
さらに言えば、この曖昧さは、トルコ全体、我々皆にとっても損害である。

もしPKKがHDPの政治的役割と存在感を重視しないのなら、国会や議論など重要でないと言うのなら、そしてもはや衝突と市内戦が唯一の望みであるのなら、その意思を表示すべきである。
もしPKKがHDPの政治的存在感、つまり第三政党としてのポジションを重視するのなら、HDPに道を譲らなければならない。
これは衝突の終結と、HDPの進出を意味する。
市内戦は、PKKが前者を選択したことを意味する。
反対に「解決プロセス」に―その名前は変わったとしても―戻るのなら、後者を選択したことを意味する。

ただちに衝突の終結が決断され、ディヤルバクルと周辺地域のどの街においても、平常に戻った生活の中で新年を迎えられることを願う。

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( 翻訳者:篁 日向子 )
( 記事ID:39457 )