Cengiz Candar コラム:ああ、我がディヤルバクル…
2016年03月13日付 Radikal 紙

私が初めてディヤルバクルを訪れたとき、スル(ディヤルバクル城壁内旧市街)には行かなかった。つまりディヤルバクルに行かなかったようなものだ。ただダー門の近くからマルディン門の方向を横目で見て満足したのだった。

最初の出会いから今まで、途切れることなく続く関係のなかで、最も長期間の別離の後に、私は足を踏み入れた、かのディヤルバクルへ。

飛行機から降りるやいなや、自分に約束したことを実行した。まずタヒルに会った。親愛なる我が親友のタヒル・ エルチは、イェニキョイ墓地の、名前の上に「平和の使節」との文字が書いてある墓石の下にいる。空港から出て(隣郡の)バーラル にたどり着く前、そこで眠りについていた…。

オズギュル・ギュンTVで「情報の番人(というジャーナリスト団体)」のためにディヤルバクルへ訪れた友人らと一緒に参加した番組でも、以下のように述べた。

45年前ノールーズ(イラン暦の正月)後の日暮れ頃、ディヤルバクルを初めて訪れたとき、スル(城壁)から中に入る瞬間に感じたのは「一目惚れ」だった。

(この)古い都市が特別な個性をもっていることがすぐにわかった。街は生き生きとしていた。そして堂々としている。通りは様々に行き交う活気ある人々でいっぱいで、奇妙な魔法があった。

私もそれにかかった。真夜中を過ぎまで、通りをあてどなく、しかしこの街と共にいることで十分とばかり、あっちこっち歩きながら時を過ごした。

ディヤルバクルと私の関係はこのように始まり、続いてきた。ディヤルバクルとは、そもそもスルということだった。イェニシェヒル、 オフィス、カヤプナル、ハムラヴァト[といった地区]、全てはあの当時から今日まで[過ごした]時間の中で現れた。歴史的なディヤルバクルといえば、スルのことであった。

ディヤルバクルはスルだったし、スルとはディヤルバクルのこと…。

ディヤルバクルにその後いつ行っても、これまで数え切れなくなるほどたくさん行き来したし、訪問理由がスルイチ(市壁内地区)であることを必要としなかったとしてさえも、何をおいても絶対にスルに身を置いた。

私にとってディヤルバクルに行くことは、常にスルに訪れるということだった。

一週間前にフラト・アンル氏が連絡してきた。ディヤルバクル広域市の共同首長だ。ディヤルバクルにここ暫く何故訪れないのかと質問してきた。

スルは包囲下にあり、戦闘があった。心の中を「恥ずかしさ」が包み込んでいた。ディヤルバクルの人々に私の援助が届く一切のことを行わずに、あらゆる種類の平和の試みに耳を塞ぐ政権の時代に、スルに入らずにディヤルバクルを訪れることは、戦車と砲火の下で煙の立ち上るスルを遠くから見ることは、あたかも「ポルノ映画を見ている」かのようなことになりそうだからだ。

私はこの気持ちを彼に伝えた。

フラト氏は「また来てくれ」と言って、「親友に会いたいと思っている。君に会うことを楽しみにしている」 と付け加えた。

そんな日々の中でイスタンブルで新聞記者業を続けようと努力する人々の何人かが、尋常ではない難しい条件の中で、決死の覚悟で、ある意味 「生死が関わる」中にあるディヤルバクルで記者業をやろうと努力する「地元の同業者たち」と連帯し、彼らを支える目的で彼らは「情報の番人」を始めた。 グループごとに彼らはディヤルバクルに行っていた。

「情報の番人」は3月末までディヤルバクルで維持されるはずだった。彼らは「来て」と言ってくれた。 「6番目のグループがそこにいる時に、ディヤルバクルに君が来たら、友人たちも喜ぶから…。」

出発してディヤルバクルへ訪れ、まず最初に[亡き]タヒルの元へ行ってから、「情報の番人」の友人らと広域市庁舎で会った。ギュルタン・クシャナク氏とフラト・アンル氏の許を訪れた。

M・アリ・ビランド氏の試みの結果、2009年にハサン・ジェマル氏とともにCNNトルコで「経験を語る」というタイトルのTV番組を始めた。「クルド問題解決プロセス」も新しく始まっていた。我々もかつて番組をディヤルバクルで始める決定を行った。

番組最初の仕事のためにディヤルバクルに訪れたとき、初仕事はフラト氏に会うことだった。私たちはディヤルバクル刑務所の前で写真を撮った。フラト氏がその撮影の2年後にクルディスタン社会連合(KCK)の中の逮捕者の一人としてその刑務所の中に捕らえられて、人生の数年を奪われるとは、この時には思いもしなかった。

フラト氏は、その後、人びとの記憶に残る「私たちは会うべき最後の世代です。この機会を逃したら、あんな世代があとに続くから、きっと私たちをとても求めることになる」との言葉を我々に投げかけ、トルコは、その言葉をテレビ画面に映るフラト氏の口から聞いた。

今回は、刑務所前ではなく、自治体首長の執務室でフラト・アンル氏と話している。

ギュルタン氏は、スルでの状況について詳しい説明をした後で、目を伏せ、顔に現れたはっきりした悲しみをたたえて話し始めた。「私たちの記憶が破壊された」との言葉で始まった。

「私たちの記憶が破壊された。私たちは1990年代に何を見ていた。焼かれた村々。犯人不明の事件。拷問…。どうも、私たちは何も見ていなかったらしい。自分たちは戦争を経験したと考えていた。だが何も経験出来ていなかったようだ。「解決プロセス」という幻想の世界を過ごしたが、だが戦争とはこれだったようだ。私たち の記憶すべてが破壊されてしまった…。」

フラト氏は熟慮して下した判断を明確に「私たちが経験することになった昨今の日々[の出来事]がずっと後々にも残すことになる、非常に恒常的な結果が生じるだろう」と言って続けた。

最も強烈な彼の観察を以下のように表現した。「私たちは今、1915年を経験した。1938年を経験した…。」

言わずと知れた1915年、1938年のデルスィム…。

フラト氏は、ジズレとスル[での出来事]と共に、急進化し、先鋭化した、トルコにとって、おそらく「失われた」、「新クルド人世代」の出現を知らしめようと努力している。

ギュルタン・クシャナク氏とフラト・アンル氏の後に、私たちがとても長い話し合ったハティプ・ディジレ氏は、若い世代が注目に値するほど目の前からいなくなっていると話した。「集団会合の招集を行うと、来る者の多くは髪が白いのだ」と冗談っぽく状況を教えてくれる。

若者たちは「もうたくさんだ。ガスを吸って、放水されることにうんざりした。あなた方は我々にただガスを吸わせただけだろうが」と反発を見せるという。彼らを抗議活動として 「法的・民主的チャンネル」に誘うクルド人政治家たちに対してだ。

目の前に見えず、デモに参加しないなら、彼らはどこに?この質問の答えは、人々の「バーチャルの力」の中にいるのかもしれない。

ギュルタン・クシャナク氏はより恐ろしく身の毛もよだつような観察を伝える。「クルド人の母親たちは初めて、そう、初めて軍人や警官の死を悲しまなかったと言っている」と述べる。

「感情の剥落」は、もはやありふれてしまって、現時点をうまく定義づけるに十分ではないかもしれない定義かもしれない。

ことはもっと深刻な状態である。たとえば「ディヤルバクルの魂」であり、何百年間にも渡って居住地であること以上に、重要な経済の中心でもあるスルが、ジズレさえ超えるほどもっとひどい破壊によってなくなり、すでに引き返すことの出来ない感情とこれを元に生まれる未来について推測しているのだ。

フラト氏は私に地図上でスルの歴史についての知識を教えてくれる。目下、一番大きい破壊は、ムグルドゥチ・マルゴシャンの『ギャーヴル街区』という小説によって不朽となった記述箇所で生じている。スルの有名な歴史的な場所ハンチェペキは、おそらく消され、殺されている。

フラト氏が言うには、最近スルで発生したことに似た展開は、1915年以前にも経験された。アルメニア人の若者が、ハンチェペキで塹壕を掘り、屋根の上に配置されたのだ。

1915年にはスルは残ったが、中にいる人々は残らなかった。

今回は中にいる人々も、彼らをかくまうスルそれ自身も残らなかった。

フラト氏は、地図上でダー門からマルディン門にむかって伸びたガーズィ大通りが、1925年のシェイフ・サイードの反乱後に、スルの作りを変えようとした軍決定によって、ある箇所が破壊されて姿を現したと、指さして説明する。

今回はさらにより包括的な「こと」が行われようとしているかのようだ。実際に全てが、まさに「キリスト生誕」のようにいわれる「12月14日」の後に実現された。12月14日は国軍がスルに直接進軍した日付だ。

12月14日に城壁内にキャラバンサライホテルの裏側から戦車が入ってきて、(シェイフ・ムタッハルモスクの)「四つ足のミナレット」方向に向かって進行し始めた。2人の人間が互いに触れずに通り過ぎるのが困難なほどの通りに戦車が入ってくることは、単に「軍事バランス」を変えることに留まらず、スルをおそらく引き戻せない形で変化させる始めたのだ。

クルド人政治関係者たちは12月14日を「ディヤルバクルやクルド人の県における為政がAKP政権の手から離れた日付」として解釈している。

自治体の中で総数7万人がスルで生活していた。「歴史的都市」にはすでに誰も残っていない。

ギュルタン・クシャナク氏の情報によれば、初めの数ヶ月で2万5千人、「99日間の外出禁止令」が開始された12月2日から今日までに1万5千人が、すなわち合計4万人がスルを離れたという。

ギュルタン氏からのまた別のデータでは、衝突の舞台になった「クルド人の県」の合計150万人のうち30~40万人が地元や故郷から離れることを余儀なくされ、移住したそうだ。

しかしこの時期と1990年代との違いは、誰も(トルコ)西部に移住しないことだ。彼らは側にある街区や郡に移動している。しかしこれは「未来」 という点では「吉兆」の展開とは考えられない。

逆に「西部との共通の未来という目的からの逸脱」のサインとして解釈されている。

地域には、集合住宅局やトレド(註:首相がディヤルバクルをトレドのようにすると発言したことを指している)といったおしゃべりが取り除けない、統計ではうまく説明できない類いの、とても深い分裂がある。

フラト氏が「今後長い年月にわたって残るような影響となろう」と話したことは、まさに言葉では表しきれない、しかしながら感じうるとても深刻な状態なのだ。

初めて、ディヤルバクルに来たが、スルには行かなかった。すなわちディヤルバクルに行かなかったようなものだった。ただダー門の近くからマルディン門の方向を横目で見ただけで満足したのだった。

その先を見ることに耐えられないと感じた。城壁内に背を向けた。

ある親友に「スルにいる人々は心を痛めたに違いない」と私が言うと、彼は「そうだね」と言い、「それもどんなに痛んだことか…。」

スルイチ(城壁内地区)…「我が心の」…。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:40040 )