ギュレン派はいつ軍に浸透したのかー要は、1986年
2016年07月20日付 Hurriyet 紙


フェトフッラー・ギュレン教団は1980年代中頃から士官学校に少しずつ浸透し始めた。まず初めに1986年に明らかとなった浸透に対し、トルコ軍(TSK)は対策を講じた。現状は、士官学校における浄化にも関わらず、ギュレン教団がトルコ軍内で強大化していったことを示している。今日、准将と大佐の階級にいる者たちの入学日は、ギュレン教団が軍事学校と士官学校に盛んに入っていったとされる日付と重なっている。

時は1986年。イスタンブル海軍高校にて。アル・ジャズィーラのイルファン・ボザンの記事[によれば]、順応期間に移行した海軍高校の一年生たちは教室に集められた。 学生たちの向かいには校長。校長は生徒らに次のように話した。「さて、諸君に一枚ずつ紙を配る。その紙にはいくつか質問がある、その質問の全てに正直かつ誠実に答えて欲しい。心配はいらない。諸君の回答で誰かに何かが起こるということはない。誰も退学に追い込まれない。」

驚きにあふれた生徒らは紙を裏返していくつかの質問を目にした。質問の一部は以下の通りだった:

「浸透雑誌を読んでいるか」

「家族に浸透雑誌を読んだ者はいるか」

「この学校に来るために諸君を差し向けた『何者か』はいたか」

家族の敬虔さについてもいくつかの手掛かりが得られる質問をおこなった用紙は回収された。しばらくしてから一年生の相当数の学生が退学となった。

自身も質問に答え、経験したことを30年後に説明した人物は、何名が退学となったのかは思い出せないが、「かなり」という表現を使っている。

■士官学校に捜査

新聞ではその当時「フェトフッラー派」という名で想起されるギュレン教団[関係者が]士官学校から遠ざけられたことはしばしば記事となった。その当時に影響があった情報誌のうちノクタ誌の1987年2月15日の号の表紙は、「士官学校で第二捜査」という見出しを帯び、1986年10月以来、士官学校の「フェトフッラー派」の学生らが学校から遠ざけられたことが書かれていた。

1986年はフェトフッラー・ギュレン教団のため重大な年の一つだった。1980年クーデターの後、逃亡生活をしてきたフェトフッラー・ギュレンはその年ブルドゥルで証言し、逃亡生活を終えた。かつてアンカラ検事局によって作成された「ギュレン派基礎形成」という起訴状では「ギュレン派基礎形成」が 1971年からずっとトルコ軍の中で着手されてきたことを明らかにし、以下のことを確認している。

「最初は少なかった[ギュレン派学生]の数は年々次第に増えた。1984年の後この活動は活発になっていった。この時期にトルコ軍内部には入り込んだ学生らの多くが現在参謀大佐あるいは将官となっている。」

フェトフッラー・ギュレン教団についてトルコ軍内部で唯一正式な調査を進めた人物である空軍司令部の軍事裁判官アフメト・ゼキ・ウチョク大佐は、2016年4月に ヒュリエット紙のアフメト・ハカンへのインタビューで、当時についてコメントを残し、以下のように述べた。「[後に参謀総長となる]ヤシャル・ビュユクアヌトは、1986年[イスタンブルの]クレリ軍学校校長の頃、軍学校試験で約250名の生徒がトルコ語の試験で満点を取った。調査の結果、問題がギュレン教団によって盗まれ、この生徒らに与えられたのが確認された。この生徒のうち50-60名程が退学となっている。残りの生徒は「合格する」などと言って退学となっていない。

ウチョク氏は、2009年ギュレン教団について進めた捜査の後、バルヨズ裁判の被告となった。4年9か月の懲役が科された。

■ギュレンとチルレル首相の会談

1990年代の前半は、フェトフッラー・ギュレンが国全体で勢力伸長を始めた時期である。ギュレンについて「信仰-都市、ジェマート(教団):フェトフッラー・ギュレンのケース」という題名の本の著者であるアリ・ブラチ氏は、1991年を崩壊の年として紹介し、ギュレンが国全体で勢力伸長を決めたと書いている。ギュレンは1991年6月16日にスレイマニエ・モスクの説教の後すでに国民的な人物として現れることを決めた。「国民的な人物」になった後、トルコの重要な政治家と同席し国家規模で認知され始めた。開所式、食事会でギュレンは時の有力な政治的演者としばしば一緒になった。1994年1月15日にギュレンと当時のタンス・チルレル首相との間の会談が首相府で行われた。この会談を報道は「海軍でのイスラム主義者捜査で取引」と伝えた。会談ではギュレンが、「海軍、ギュルハーネ軍医学学校で実施された「過度の信仰者」捜査について不満を漏らしたと報道された。

■1984-2014年の間に400名がトルコ軍から除隊となった

ギュレン教団の関係者がトルコ軍内にいることがトルコで時々協議事項となった。高等軍事評議会(YAŞ)の決定で時折、軍から除隊となるものがいた。 この問題における最新の情報は「ギュレン派基礎形成」という起訴状の中にある。トルコ共和国参謀本部から得られた情報が起訴状では次のように綴られている。

トルコ共和国参謀本部は1983-2014年の間の時期にトルコ軍と関係を切られたフェトフッラー・ギュレン教団に属する職員数を明らかにした。この期間中、計400名のトルコ軍職員がこの組織との関係により高等軍事評議会の決定によりトルコ軍から除隊された。

■2003年以降除隊者なし

起訴状で注目を集めた情報はというと2003年から除隊がなくなっていることである。この状況は起訴状では次のようである。「トルコ軍は、2003年よりギュレン派とされる人物を誰ひとりとして除隊させていない。この後主導権は[ギュレン]組織に渡り、トルコ軍内でこの組織に属さない者、及びそれに対抗する者全てを粛清し始めた。エルゲネコンと他の軍関連の裁判は、政治における軍の後見を排除するためではなく、[ギュレン]組織がトルコ軍の上で主導権を持つために実施されたものである。今日、トルコ軍内部でかなりの数の参謀はフェトフッラー派テロ組織(FETÖ)のメンバーである。」

■30年の動きは来るバルヨズ裁判で終了

起訴状にある「エルゲネコンと他の軍関連の裁判は、政治における軍の後見を排除するためではなく、[ギュレン]組織がトルコ軍の上で主導権を持つために実施されたものである」という表現を、退役した元軍裁判官のアフメト・ゼキ・ウチョク氏も共有している。

ウチョク氏は、7月15日のクーデター実施の際に重要な役割を担った空軍を例に取り上げた。7月15日のクーデター実施の際に最も注目を集めた点は、拘束・逮捕されている将軍らの中で准将位にある者たちが多くを占めていることである。クーデターのすぐ翌日に拘束された103名の将軍のうち76名は准将位にいる者だった。軍の中の表現で時期つまり卒業年をつうじてすべての判断を下すことは難しいが、今日准将と大佐の階級にある者たちの入学日がフェトフッラー・ギュレン教団が軍学校と士官学校に盛んに入っていったといわれる日付と重なっている。フェトフッラー・ギュレンが国民的な意味で威信が「高まり」、あらゆる層の政治関係者に接近した時期に軍事学校を終了した者の相当部分が、今日の7月15日のクーデターでもって逮捕されたのは、どれほど偶然といえようか。

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( 翻訳者:満生紗希子 )
( 記事ID:40928 )