誰が?なぜ?―クーデター参加の過激世俗派からみる分析
2016年07月18日付 Cumhuriyet 紙


 「フェトフッラー・テロ組織(FETÖ)ではないが、過激な世俗主義感情を持つ反政府的な将校たち:拘束された人物の中には、そして戒厳令のリストの中には「過激世俗派」「過激アタテュルク主義者」の将校たちがいることが見て取れる。」

 [インターネット・ニュース・サイトの]T24のメティン・ギュルジャン記者は、7月15日に起きたクーデター未遂事件についての分析を行った。クーデターの弱点が陸軍司令部であったとするギュルジャン氏の分析は以下の通りだ。

■クーデター未遂の解剖図

 7月15日の夜、トルコはクーデター未遂、反乱、そして市民に対する史上最大のテロ攻撃を同時に経験し、トルコの民主主義は大きな試練をくぐり抜けた。幸いなことに、トルコは転覆することなくこの大きなカーブを切ることができた。

 悲しみや痛みが生々しいうちは何も書くまい、話すまいと本当は決めていた。しかしこのところの情報不足、特にテレビに出演する数名の治安評論家が事件を過度に英雄譚やエンターテインメントのように語っていることを受け、専門的で冷静かつ中立的な分析を書く必要性を強く感じるに至った。したがってこの分析は、少なくともこのクーデター未遂の検死解剖を行い、このような事件が二度と起きないような教訓を引き出すための案内役となる。

(中略)

■まず、具体的な事実から

 非民主的に権力を握った軍政は、どんなに良い統治を行おうとも、代議者たちによる最悪の統治にすら勝ることはない。7月15日、「家へ帰れ、外出禁止令が発令された」というクーデター勢力の告知を知りながら通りへ躍り出た何万人ものトルコ国民が伝えたメッセージは明確だ。「選挙で来たものは選挙により去る。」(「去りたくないと言ったらどうするんだ」という問いはまた別の問題だ。)

■何が起きたのか

 7月15日、バルケスィルへ休暇に行っていた私がイスタンブルのエセンレル・バスターミナルで降りたとき、最初に聞いた奇妙な話は、22時頃ボスフォラス大橋が二つとも兵士によって閉鎖されたということ、トルコの領空が飛行禁止となっており、軍用機が飛んでいるということだった。これを聞いたとき、私は トルコで飛行機のハイジャック・テロが起きているのだと思った。
 
 しかし、その後入ってきたニュースがボスフォラス大橋のみならずイスタンブルやアンカラの重要地点で起こっている衝突を伝えると、それがテロ攻撃とは全く違う性質のものであることがわかった。「それ」が何なのか、23時ごろにビナリ・ユルドゥルム首相はトルコの主要テレビ局から生放送で説明した。起きているのは、政権を掌握することを目的としたクーデターであった。さらにその後、タイイプ・エルドアン大統領はテレビ局に電話をつなぎ、起きている事件について、約2年間にわたってトルコ軍に侵入しているという深刻な疑いをもたれているフェトフッラー派テロ組織(FETÖ)によるクーデターだということを強調し、街頭へ出るよう大衆へ呼びかけた。

 市民はイスタンブル、アンカラにおいて衝突が激化している場所へ勇敢に躍り出た。ハリウッド映画でも稀有であろうこの混沌とした夜は、更けるに従ってより危険なものとなった。トルコ史上初めて、クーデターの中でアンカラの国会議事堂がF-16戦闘機によって爆撃され、一機のシコルスキー・ヘリコプターを撃墜され、クーデター後には将校がギリシャへ逃亡する事態を目にすることになった。

 その夜、参謀総長フルスィ・アカル陸軍大将が夕刻17時ごろクーデター実施の連絡を受けたが、参謀司令部を離れることを拒否したため、副長官ヤシャル・ギュレル陸軍大将とともにクーデター勢力によって連行された。

 司令部にいた陸軍司令官サーリヒ・ゼキ・チョラク大将、ジャンダルマ総司令官ガリプ・メンディ大将、夕方エスキシェヒルでの結婚披露宴に出席していた空軍司令官アビディン・ウナル空軍大将、海軍司令官ビュレント・ボスタンオールにも、それぞれ同じことが起きた。

 午前3時頃、参謀本部の公式サイトに掲載されたクーデターの告知、国営放送TRTから全権を掌握したという「情報」が流された。16日朝にかけて衝突は減り、特に街路にいた小規模な兵士集団が警察によって拘束された。昼ごろになると、世間は日常へと戻りはじめた。

■誰がクーデターを企んだのか

 法的な捜査をもとに、我々はこの問いに答えようとするだろう。しかし私は、このクーデター未遂の首謀者グループについて、すでに公開されている任命リストや県に戒厳令を敷いた司令官らのリスト、そして[スマートフォンアプリの]Whatsappのデータを参照した上で、重要度及び優先順位の高い順から以下のように列挙する。

 ・FETÖ関係者の将校たち:彼らは7月15日の夜における頭脳の役割を果たした。この反乱とフェトフッラー・ギュレンの組織の間に具体的な因果関係があったかどうかという、捜査で最も注目される争点において、議論が深まるだろう。

 しかしまず、みなさんにテストをしよう。自分が応援しているサッカーチームを思い浮かべてほしい。例えば、あなたはベシクタシュのファンだ。もし誰かに「仕事上ガラタサライ・ファンのふりをしろ」と言われたら、どのような返事をするだろう?万が一ベシクタシュ・ファンであることが、あなたのアイデンティティや倫理、人格の一部であるなら、こんなことは忌々しくてやっていられなくなるだろう。しかし我々の見る限り、このクーデター未遂に関与した将校の大半は、サッカーチームどころか兵士としての誓約、国民・祖国に対する忠誠すらも忘れることができるほどに「怪物的人格」を何年も隠しおおせたのだ。

 考えてみてほしい。ここで話題にしているのは15-20年にわたる彼らの輝かしい何百もの兵士としての過去・経歴なのだ。彼らは、国民を、祖国を、愛するものを売りさばき、引き換えにこの怪物的人格で7月15日の夜を覆い尽くしたのだ。これは心理学的(個人的分析)及び社会心理学的(小規模社会集団のレベル)な病理だ。

 これについてはこれから色々と書かれることになるだろう。私はここで二つの重要な点を強調しておきたい。まず、クーデター派が経験したであろう追い詰められた感覚だ。もし彼らが自国民・祖国に対して「特攻」していなかったとしても、16日や17日の朝に集団摘発で拘束されていたはずだ。国民、祖国、民主主義について博打を打ち、我々全員を破滅させるその博打によって拘束されているのだ。結果から見れば、損失は「それほど」大きくない。

 もう一つは、彼らがFETÖから直接に民政的指令を受けたうえでこのクーデターに走ったのか、それとも「人間の本能」により次第に自ら堕落することによって過激化していったのか、という問いである。私の見立てでは、怪物的人格と将校としての自覚、「自分のような人が何百人もいる」という安心感が、この派閥を大いに毒していったのだろう。

・FETÖではないが過激な世俗主義感情を持つ反政府的な将校たち:拘束された人物の中には、そして戒厳令のリストの中には「過激世俗派」「過激アタテュルク主義者」の将校たちがいることが見ている。

・個人的な利益、キャリアアップのために加担した軍人たち:公開された報道において目を引くのは、銀行をはじめ多額の予算を保有する公共機関、さらには武官や県の治安部隊司令官に至るまで、各所から人物が選ばれていることである。人生の30年近くを軍隊に捧げ、キャリアを重視する将校(特に将官としての大佐及び将官への昇進を控えた准将など)の多くは機会とリスクに対し、自然と「プラグマティック」に見るようになる。実際、中-上級将校から上級司令官(軍事制度上あらゆる将官とその上、特に大将は帝王として知られる)に昇進する道というものは、どのグループにとっても非常に重要だ。したがってこの「プラグマティック」な振る舞いもごく普通だ。

 しかし、昇進した軍人と退役した軍人の間で、葬儀、墓、基地での待遇、住居、組織内での自分自身ないし家族の立場にとって相違が生じる重要な基準になるのだとすれば、昇進にかかわる競争はとても切実なものであり、時には「破滅的」にすらなりうる。この強い切望こそ、クーデターというリスクを一つのチャンスを見るようになった理由なのかもしれない。

 ところで、8月1~4日に予定されている高等軍事評議会において1200人を超える大佐が退役すること、トルコ軍が大規模な縮小を見ることにも注意しておこう。要は、2016年は昇級・昇進においてトルコ軍は混沌たる状況を呈するだろう。

(中略)

■クーデターはなぜ未遂に終わったのか

 この問いについては、直接的要因と間接的要因を挙げることができる。

 クーデター失敗の直接的要因:
・クーデターの成否を分けたのは、その夜マルマリスで休暇を取っていたエルドアン大統領に対してイスタンブルの第1軍司令官ウミト・デュンダル大将が電話で事件について知らせたこと、アンカラではなくイスタンブルへ向かうよう説得したことだと見ている。迅速な警告のおかげでエルドアン大統領はマルマリスを早期に脱出することができた。クーデター軍が大統領の泊まっていたホテルに奇襲を仕掛けたのも、彼が脱出した1時間後のことだった。エルドアン大統領を早期にイスタンブルへ退避させたことが、このクーデター計画を破綻させる最重要の要因だといえるだろう。

 またデュンダル大将が記者会見を行い、クーデターがトルコ軍の統制によるものではないこと、指揮機関がクーデター派に制圧されていることを強調したうえで、クーデターは非合法のものであるとテレビ放送で宣言したことも重要な要因だ。

・エルドアン大統領がリスクを冒してマルマリスからイスタンブルへ飛ぶことを決断したこと、彼にとってより安全な都市であるイスタンブルから、彼自身のカリスマ的話術によって危機を乗り越えたこと。

・市街に展開した兵士らの多くが、「訓練」ないし「テロ事件」があるという虚偽によって送り込まれた兵役中の一般兵(メフメッチキ)だったこと。特に町に展開した、階級の低い軍人に率いられた兵たちは、待ち受けていた警察や市民の抵抗を前に「驚き、何をすれば良いかわからなく」なり、町の掌握はあっという間に逆転した。

 またこのクーデターが空軍と憲兵隊を中心に構成されていたこと、陸軍の部隊には中隊・大隊レベルで情報が行きわたっていなかったことも、クーデターを失敗に導いた重要な要素となった。

・15日夜、トルコで皆が観た趨勢は主要な放送局がクーデターに反対する放送を行ったことだ。これらは運命の2時間において政府が心理的優位を獲得するのに大きく貢献した。

・イスタンブルのボスフォラス大橋やアタテュルク国際空港、アンカラの大統領府やクズライ広場などを占拠していた兵士たちを、街頭に躍り出た市民や警察らが説得ないし強制的に排除する様子に、国民皆が注目していたことだ。特に街頭において警察や市民が兵士らに対して見せた抵抗がテレビで放映されると、すでに政府が獲得していた心理的優位をさらに確固たるものとした。

・野党がクーデター支持の姿勢を取らなかったこと、民主主義を強調したことが、クーデターを非合法へ追いやった。

クーデター失敗の間接的要因:
・クーデター派が一つの指揮系統の中で統率の取れた行動が取れなかったこと。彼らの指令中枢が存在しなかったこと。2016年のトルコにおいて指揮機関の承認を得ていない、指揮系統の存在しない、アンカラとイスタンブルのみで展開されたクーデター行為は、運命の2時間においてトルコに広がった狼狽をうまく利用できなかった。事実、この試みが失敗に終わったのは「慌てて実行された特攻的反乱」であったことも大きい。

・もう一つの大きな間接的要因としては、クーデター派の幹部将校らが、市民にとっての現実と乖離していたことだ。彼らのエリート主義的考え方は無線通信にも反映している。「戦闘機と攻撃ヘリコプターでイスタンブル・アンカラ上空を低空飛行し、両都市を制圧する。市民は家から出られないだろう」という見下した視点は、クーデターが実際の社会構造をほとんど身近に知らなかったことを示している。

 またイスタンブル・アンカラなどの各県に、2016年という年に、それも暑い夏の朝6時以降に「外出禁止令」を出すなどということは、社会の現実に対する文化的距離、そして彼らのエリート主義的考え方の結果である。

・さらに、クーデター派の中に「文民政治」の勢力がいなかったことも間接的要因の一つだ。「このクーデターが成功していたら、いったい民政移管はどのようになされていただろうか」という問いに答えることは今のところできないが、対抗勢力の政党や文民政治家の誰一人もクーデターに参加していなかったことも、重要な間接的要因といえるだろう。

・また間接的要因として、クーデター派における複雑な権力構造と利害関係によって、政権奪取の戦いにおいても統率性・協調性のある行動を妨げたということも指摘できる。

(中略)

■国家情報機構や参謀本部はなぜクーデター派のことを知らなかったか

 実はトルコ軍内のギュレン派の存在はずっと昔から知られており、政府内ではそれに関するリストまで出回っていた。おそらく、政府と軍指揮機関は8 月1~4日[の高等軍事評議会]において「大粛清」を行い、これでこの構造に終止符を打とうと考え、安心していたに違いない。政府がこのクーデターを防げなかったことから、誰一人としてこのような「狂気」を開始する一派がいるということを信じなかったこと、この事件がアンカラで語られていた「起こりうる最悪のシナリオ」の想定を超える事態であったことが読み取れる。政府は、評議会の最中にトルコのいくつかの場所で個別的(もしかすると武器による)抵抗が起きるかもしれないと思っていただけに違いない。軍指揮機関も、このような集団的な反乱がおきるということは全く想定していなかった。

(後略)

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( 翻訳者:今城尚彦 )
( 記事ID:40945 )