ダーイシュ、監獄、学校、モスクの児童を徴兵。児童を被害者から加害者へ③
2016年06月17日付 al-Hayat 紙


■ダーイシュは刑務所や学校、モスクから子どもを徴用し……犠牲者から殺人者に変えた③

※この記事は、以前に二つに分けて前半部を訳した記事の続きです。

【モスル:ムハンマド・アワード】

■「軍司令官の子獅子」から「カリフ制の子獅子」へ

ニーナワー県の地方行政官たちによれば、同県における18歳未満男子の人口は約75万人と推定される。侵攻の手始めとして、武装集団〔IS〕はこれらの少年を数十名徴兵し、消音機付き拳銃や即席爆弾を用いて地方行政官や政府官僚を狙う暗殺作戦を行ってきた。「彼ら〔IS〕は、少年たちの動きの軽さと、警戒心を呼び起こさない性質を利用した」と、マフディー・サビーフ・ガラーウィー前作戦司令官は、モスル陥落の理由について議会委員会で自身の見解を述べた。

「カリフ制国家」の宣言にあたり、〔少年を軍事利用するという〕考えがこれら少年たちを、中央アジアやヨーロッパ、北アフリカ地域から移住してきた人々の子どもたちとともに専用の組織に押し入れることに至るまで、ほとんど日を要しなかった。実際、侵攻の初期に書かれた「イスラーム国の運営における諸原則」と題する漏洩資料は、〔ISによる〕「征服後に起きた社会的・教育的な変化を熟慮する」必要性を指摘している。

アブー・アブドゥッラー・マスリーと呼ばれる、この文書の書き手は、「新たな移住者とその家族をイスラーム国に定住させること」の重要性を述べつつ、「移住者」と〔元からIS支配地域にいる〕「支援者」の子どもたちが混ざり合うキャンプを建てること、そしてそこで用いられる言語がアラビア語となることを主張した。

このようにして、数週間のうちに「カリフ制の子獅子」計画が生まれた。それは、すべての男子児童を対象にしたもので、計画参加のための年齢制限を設けなかった。むしろISは、計画への動員のためのプロパガンダのなかで、幼児が黒色の旗のそばに置かれ、その周りを自動小銃が取り囲む写真を拡散した。

モスル西部にある「ファトヒー・アルアリー」モスクで教師を務めていたアフマド・ジャブーリー氏によれば、ニーナワー県の子どもたちを訓練するキャンプ開設の発表は2014年9月に行われ、それに伴い、子どもたちをシリア側に送る動きは減退し、特別な状況のみに集中するようになった。同氏によれば、「同じ月に私たちのところに、宣教・モスク省から通達が届き、「カリフ制の子獅子」計画の名を〔モスクでの〕説教と勉学を通じて人々に浸透させることが命じられた」という。

イラクにおけるジハード主義諸集団の歴史のなかでも、「子獅子」という名付けに近いものを見つけることは困難だ。少年たちから構成される同種集団の唯一の例は、10年ほど前に「アルカーイダ」の細胞組織がディヤーラー県で発表したもので、これは「天国の鳥」と呼ばれた。しかしながら、この「子獅子」の名付けに関しては1990年代に遡ることができる。当時、サッダーム・フセイン体制は学生たちを〔バアス党傘下の民兵組織である〕「フェダーイーン・サッダーム」部隊に加わらせたが、この学生たちは「軍司令官の子獅子」の名で呼ばれた。これとISのものとの違いは、サッダーム体制では学生の動員が戦争プロパガンダのための利用に制限されていたという点にある。つまり、当時の資料はいずれも、これら学生たちが今日行われているような殺人行為に加担したとは記していないのだ。

(つづく)

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( 翻訳者:田中大輔 )
( 記事ID:41023 )