Murat Yetkinコラム:アサドのことは今や些末な問題
2016年08月22日付 Hurriyet 紙

8月20日にイスタンブルで行われた記者会見での、バッシャール・アサド大統領はトルコが望んでも望まなくても、シリアにおいて一人の「アクター」 であるというビナリ・ユルドゥルム首相の発言は、トルコがシリア政策の根本的な変化を経験した数日間で2番目に強い意思表示となった。

始まりは、8月19 日付本紙での「私たちに降りかかっていることの多くの責任はシリア政策にある」というヌマン・クルトゥルムシュ副首相の言葉であった。クルトゥルムシュ副首相は、「もし、適切なタイミングで有効な和平合意の見通しを立てることができていれば」と話した。
ユルドゥルム首相はというと、イスタンブルで新聞記者の質問に答えて、「最優先すべきことは、シリアにおける即時の停戦である」と述べた。
ではアサド大統領は? 昨日まで、「辞めるべき」がトルコのシリア政策の前提条件であったアサド大統領は?
ユルドゥム首相は、「すべての問題を一人の人間、一つの物事に関連付けるのは、解決不能に甘んじることを認めることである」と話す。
しかし、危機が続くにつれて、シリアでさらに多くの人々が亡くなり、さらに多くの人々が移住し、危機は『分離主義者テロとしてトルコに跳ね返った。』
もちろん、トルコは、もはやどれほど高くつこうとも、シリア問題の解決を望んでいる。しかし、解決にアサドは必要なのか必要ではないのか。
答えはユルドゥルム首相に委ねよう:ユルドゥルム首相は、以下のように話した。「50万人が傷ついた。シリアは、その責任を負えるのか。今日、アメリカとロシアは、長期的には不可能であると見ている。しかし、事態打開のため話し合いのテーブルにつくべきだ。現在、望んでいても望んでいなくとも、アサドは一つのアクターである。」
またこれも、アサド大統領との対話に関して話したことである。 「アサド大統領が話し合う相手はシリア国内の反体制派である。私たちがアサド大統領と話すことは問題ではない。当事者は彼らである。彼らに話し合ってほしい。」
現在、この状態は転機なのか。もちろん転機である。悪いことなのか。いやそんなことはない。より現実的な路線がある。
しかし、なぜなのか。エルドアン・ダヴトオール時代の基本路線と考えられていた「反アサド」政策は、エルドアン・ユルドゥルム時代になるとなぜ「望まなくともアクター」という現実路線に変更したのか。
会見後にサバフ紙のセルダル・カラギョズによるユルドゥルム首相への質問に対して非常に興味深い回答をした。「私たちにとって解決が重要である。これ以上犠牲者が出ないことが重要である。もし人々が救われるのならば、これ以上血が流れないのならば、私としては、その他のことは些末な問題である。」
まさにこれである。昨日まで政権を転覆させるためにこれほど努力していて、おそらくその失われた時間にイスラム国とPKKのテロ行為が都市で起こる原因となったアサド追放政策は、現在、「些末な問題」となった。
ユルドゥルム首相は、「これらすべてのことが話し合われ、解決策が見出されるだろう。私が述べたように、アサド大統領は、長期的なシリアの統治者にはなれない。不可能である。それも一つの現実である。これらのことをすべて考慮すると、アメリカとロシア、イラン、トル コ、サウジアラビアといった中心国、特にトルコは、より積極的に、よりリーダーとしての役割を担う必要がある。他国のこの枠組みへの参加を手伝うことが、結論である」と述べた。
ユルドゥルム首相は、私たちの質問を受けてのロシアとの和平もこの政策の変更において『重要な部分である』と述べた。
それでは、なぜ6カ月なのか。なぜならば、11月のアメリカの大統領選挙に続いて、1月には新しい大統領が業務を引き継ぐ。決定を下すのは新しい大統領であって、現大統領ではない。
そこで、この枠組みでロシアとのあいだでシリア会議が開かれる。この枠組みでメブリュト・チャブシュオール外相が、数日前にアンカラで会談したイランのジェバ ド・ザリフ外相と再び会談するためにインドへの訪問中にテヘランに立ち寄った。もはや、国際政治においても、電話では話せないこともある。盗聴は多い。
ユルドゥルム首相のトルコ がこれらの国々と会議を行うという考えは、本来、4年前の2012年8月に共和人民党のケマル・クルチダルオール党首が当時の首相エルドアンへ宛てた手紙に書いた「トルコが国際会議を開催してほしい」という提案に似ている。
発端は、エルドアンと公正発展党が2015年の初めにアメリカと新しい関係に入り、 2015年の中頃にインジルリキ空軍基地を開放したことだった。しかし、他方でアサド政権の転覆という目的で、シリアであらゆるグループとの関係は続いていた。アメリカはというと、トルコがPKKと同一視しているPYDが必要だった。この状況でロシアはアサド政権を重要視し、国境地帯で活動し、11月24日 にロシアの戦闘機が撃墜されたことで、シリア政策は暗礁にのりあげた。
6月26日のイスラエルとの国交正常化、6月27日のロシアとの国交正常化は、転機であっ た。しかし、7月15日のクーデター未遂が起こった。
シリア政策がこれほど重大な転機を迎えるにあたり、7月15日がどれほど大きな影響を与えたかは、ユルドゥルム首相の言葉からも明らかである。
ここ最近で「些末な問題」という言葉が使われる全ての発言は、アタテュルクの「ことが国家に関わることであるならば、ほかのことは些末な問題である」という言葉を想起させる。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:41093 )