タールク・アカン、帰らぬ「路」へ
2016年09月18日付 Cumhuriyet紙


トルコ映画の礎の一人であるタールク・アカンさんが、16日朝66才でこの世を去った。アカンさんは約二年間肺がんの治療を受けていた。アカンさんの訃報の後、彼の親友たちや近しい人々が病院と家に押し寄せた。

 トルコ映画の伝説的俳優であるタールク・アカンさんが、16日朝、治療を受けていた病院で亡くなった。ベテランの演者であるアカンさんのために明日18日14時にムフスィン・エルトゥールルホールで葬儀が行われる。アカンさんはテシュヴィキイェモスクで午後に執り行われる弔いの祈りのあと、バクルキョイのズフラトババ墓地に埋葬される。

 66才だったアカンさんはしばらく肺がん治療を受けていた。アカンさんの訃報は最初にナーズム・ヒクメト財団から発せられた。発表では「アーティストであることが世界に美しさを届けることであると示した素晴らしい人、伝説的映画の忘れがたい俳優、『母さん、僕の頭にしらみがいる』の著者、国と人々の平和、民主主義、自由に対する闘争の闘士、「パンとバラと自由の日々」の不屈の戦士、国の素晴らしい明日に向け一連の骨折りをした人、ナーズム・ヒクメト財団の設立から今日までずっと運営委員会の最も積極的なメンバーとして、ナーズム・ヒクメトへの愛を示して見せた親愛なる我らが友、タールク・アカンは、2016年9月16日金曜日の朝、我々の元を離れていきました。輝かしい彼の思い出の前に敬意を持って頭を垂れます。お悔やみ申し上げます」と述べられた。

■いつも映画を撮ることを望んだ

 タールク・アカンさんの息子、バルシュ・ゼキ・ウレギュルさんは、病院で発表を行い、とても悲しんでいるとし、「トルコ全土が残念に思っている」 と述べた。ウレギュルさんは、その後兄弟とともに、父が伴侶であるアジュン・ギュナイとともに暮らしていたバクルキョイの家を訪れた。

 ウレギュルさんは、ここで発表を行い、「14ヶ月間直面していた困難がこのがんの病いだった。発病判明後もっと大きな悲しみがあって、その日から悪化し、その後も悪化の一途を辿った。14ヶ月前に肺にあった腫瘍についての手術が行われ、腫瘍は摘出され、外科手術は成功したけれど、残念ながら腫瘍は再び肺で肥大した。肺のあとすぐに肝臓に現れた。肝臓での化学療法は効き目がなく、最後には肝不全から発生した腎臓機能の停止が原因で、逝ってしまった」と述べた。タールク・ アカンさんの遺言はあったか、なかったかという質問に対して答えたウレギュルさんは、「父はいつも映画を撮ることを望んでいた。病に伏してさえも、その考えを抱いていた」と述べた。

■最後のメッセージ「闘争」

 アカンさんは、9月7日にチュクロヴァ自治体によって催された故ユルマズ・ギュネイ(映画監督)記念夜会に治療を受けていた病院から電話で参加し、ユルマズ・ ギュネイが伝説であると述べ、彼の妻ファトシュ・ギュネイさんに闘争を続けるよう望んだ。ファトシュ・ギュネイさんの「あなたは我々にとって大切な人です、回復なさって、そしてまた素晴らしい作品を作ってください」との言葉に対して、アクンさんは「闘争は決して終わらない」と応えた。

■映画と闘争で満ちた生涯の物語

 1949年にイスタンブルで生まれたタールク・アカンさんは、ユルドゥズ工科大学の機械工学科に在学中に、雑誌『声』の1970年の「アーティスト」コンテストで一位となった。ついで夜学のウシュク高等専門学校で報道を学んだ。若い頃に行商人からタクシー運転手、バクルキョイの岸辺でのライフガードやソーダ売りにいたるまでの多くの仕事をして食いつないでいた。

 最初の映画を1971年の『ソランは一枚の木の葉のように』で、女優ファトマ・ギリキとの共演で撮影し、今日まで110本を超える映画に出演した。アカンさんの経歴は、1970年の『ハババム・スヌフ』シリーズを初めとして様々なメロドラマに出演した時期と、その後の1978年以降に現れたジュネイト・ アルクンと共演したヤヴズ・オズカン監督作品の『鉱山』と『供物』のような社会的な内容の作品で全く違った時期へと至っている。出演した『第三の目』、『狂うな』、『分解』、『手紙』、『ヴィゾンテレ・トゥーバ』といった晩年の映画でも思い起こされる。

 1970年代半ばにヴァスフ・オンギョレン監督から演劇指南を受け、彼は俳優業に密接に関わることとなった。政治的、社会的な内容の映画の中の、シェリフ・ギョレン監督の『川』では、(トルコ人民解放軍設立者の)デニズ・ゲズミシュの友人スィナン・ジェムギルが東南部の村で経験したことを伝えた。しかし本人は、その後エルテム・エイルメズ監督が検閲への懸念からこの映画を「カット編集した」と主張した。

■賞と裁判

 1980年9月12日軍部クーデタの時期に、ユルマズ・ギュネイ監督の『群れ』と1982年のカンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールをコスタ・ガヴラスと同時受賞した同監督の『路』に出演した。ギュネイ監督とは、賞を受け音楽担当がズルフ・リヴァネリである『鉱山』を検閲委員会に提出する際に、訪れたイズミト刑務所で知りあった。ユルマズ・ギュネイ監督が拘留中だったころ、1981年ドイツで彼はヒュッリイェト紙のフランクフルトでの受賞セレモニーに行った。ここでの彼のスピーチをテルジュマン紙が「この赤い共産主義者を誰がここに連れてきた」との見出しで偏向報道したところ、トルコで逮捕されるリスクがあるにもかかわらずイスタンブルに戻って、裁判審理を受けたあと、3~4ヶ月の間イスタンブル県警のガイレッテペ政治局に拘留された。このすぐ後に多くのアーティストと知識人が関係した「平和協会」裁判に2回、容疑者として出廷している。

■「母さん、僕の頭にしらみがいる」

 あるインタビューで「私の映画や作品には、全体主義を称賛し、民主主義に反するようなものは一切ない」と述べたアカンさんは、9月12日クーデターを扱った、『母さん、僕の頭にしらみがいる』というタイトルの文学的かつ自伝的な内容の198ページの回顧録も書いた。同書は、10万人を超える読者に読まれて、約20回版を連ね、彼は著書の収入の大部分をナーズム・ヒクメト文化芸術財団に寄付した。

 1981年、刑務所に90日間拘留された。このころに生じたことを伝える1983年の『霧』というタイトルの映画では、彼は、拷問をうけ、自身に拷問した者を声を通じて知るという囚人を演じた。また1990年に近づく頃、アトゥフ・ユルマズ監督がボズジャアダ(テネドス)島で俳優ハズム・キョルミュクチュ、女優ザラとともに撮影した『9月の嵐』で祖父役を演じ、再び9月12日のことを伝えた。この映画についてのインタビューで「一国の民主主義を中断するあらゆる事態に反対している。我が国だけでなく、全世界のために同じ事を言おう。民主主義は人々のためのものだ」と述べた。

 作家ルファト・イルガズの小説を原作としてユスフ・クルチェンリ監督が撮影した『暗がりの夜』では別の舞台であった。この映画では第二次世界大戦下のトルコで共産主義者であると言われたために拷問をうけた教師を演じた。

■7度のゴールデンオレンジ

 アンタルヤ・ゴールデンオレンジ映画祭で7度「最優秀俳優」に選ばれ、イスタンブル映画祭で名誉賞、アンカラ映画祭ではアズィズ・ネスィン賞を受賞した。 出演した1984年の『レスラー』でベルリン映画祭の審査員特別賞受賞の喜びを経験した。2012年にドイツのニュルンベルクで行われたトルコドイツ映画祭で「名誉賞」を受けた。2000年代の始めにTVドラマの撮影をした彼は、『私のコチ』や『夜の散歩』のような作品に出演した。2006年に民放テレビ局のために撮影され、シェリフ・ギョレン監督の『ああイスタンブル』というドラマで歌手スィベル・ジャンとともに主演した。

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(翻訳者:伊藤梓子)
(記事ID:41260)