Zeynep Oralコラム:フランクフルト・ブックフェア
2016年10月24日付 Cumhuriyet 紙

フランクフルト・ブックフェアは、世界中のブックフェアの中でも最大で、歴史あるフェアの一つである。今年で68回目を迎える。
120カ国から約8千社の出版社が参加し、見込まれる来場者数は30万人だ。今年の名誉招待国は、オランダとベルギーのフラマン地方である。(2008年のフェアでは、トルコが名誉招待国であった。)今年のメインテーマは、「思想と表現の自由」だ。この自由のために、今も続く闘いとデジタル市場。そして、世界の関心を集めるフェアの開会式に大きな感動を与えたアスル・エルドアンの手紙だ。刑務所から世界の作家に呼びかけた「文学は全ての独裁者に勝利する」という手紙…
フェアの最初の3日間は、出版社と新聞記者、作家にのみ開放される。巨大な産業の全ての役者が一堂に会する大センターである。

■シェイクスピアが現代に生きていたならば

私は、ドイツ出版社・書店協会の招待客としてフランクフト・ブックフェアを訪れ、そこで行われたパネル講演会でスピーチをした。パネルのテーマは、「トルコと表現の自由」と決まっていた。そのほかの参加者である協会理事のアレクサンダー・スキピス(Alexandre Skipis)氏、出版者のダニエル・カンプ(Daniel Kampa)氏(ジャン・デュンダル作品のドイツ語翻訳版を出版している)、そしてドイツ人作家のモーリッツ・リンケ(Moritz Rinke)氏(7月15日はトルコにいたらしい)と共に、「ドイチェヴェレ(Deutsche Welle)」の著名な新聞記者、ザビーネ・キーゼルバッハ(Sabine Kieselbach)氏の質問に回答した。
そこではもちろん、開会式で読まれた(アスル・エルドアンの)手紙と、ドイツ出出版社・書店組合のリートミュラー(Riethmuller)会長の、「言葉の自由は、私たちにとって一つの人権であり、取引きされるものではない」という言葉が繰り返された。

7月15日のクーデター未遂について、ドイツ人の著作家と私はそれぞれの視点から議論した。アスル・エルドアン、ナジミイェ・アルパイ、ジャン・デュンダルといった著作家の他、名前は憶えていないが100人ほどの作家や新聞記者がパネルに取り上げられた。また、主流メディアの沈黙が批判されたほか、欧米の偽善もテーマに上がった。そして、アレクサンダー・スキピス氏の、「私たち西の世界は、トルコを再びどのように、どこで失ったのか」という質問の答えを探った。

トルコでは、まだ本は焼かれていないが、ドイツ人の参加者が、トルコの全ての作家の身に降りかかった恐怖の雲について取り上げたとき、あなた方は好きなだけ7月15日に我が国の議場が爆撃され、200人がタンカーの下敷きになったと説明するがいい…。

最後に、ところで誰がギュレン派をこのようにしたのかという質問には突き刺さるものがあるだろう。私たちがこの恐怖の雲と暮らすことに慣れたとしても、ドイツ人の作家の次のような指摘は、パネルの全員外国人である傍聴人によって承認された。「シェイクスピアが、現在のトルコに生きていたならば、リチャード3世をもう一度書いていただろう」と。

■私たちのスタンドは悲惨だった

トルコのスタンドはどうだったか説明しよう。二つの部門に分かれている。一つはより小さく、子供たち向けである。最も目立ち、最も目を引く場所に、「私はコーランを学んでいます」という本があった…。メインコーナーはもっと広い。私がブックフェアに参加したのは、トルコが名誉招待国だった2008年が最後だ。その時は大盛況で、大賑わいだった。しかし、今回は人がいないコーナーもあった。チャイを飲んでいる数人の男性がいるだけだ…。2日間、一人の外国人も見かけなかった。
私は深い悲しみを覚えた。多様性のない悲しみ。彩のない、孤独な悲しみ。禁止と圧力の悲しみ…。さらにどう言ったらよいのだろうか、大きなコンプレックスの悲しみである。

あなたたちが7月15日のクーデター未遂後、「万歳、民主主義の到来だ」と民主主義のお祭りを千回宣言しても、全ての橋や広場に7月15日民主主義という名をつけても、重さ1トンに及ぶ『トルコの7月15日』という題名の本を作らせ無料で配布しても、写真展を開いても、だめなのだ。面白いことに、あなたたちがブックフェアで、本ではなく、自分たちがどれほど民主主義的であるかを展示して、政治的なメッセージを発信しようと努めるほど、人々は混乱する。なぜならば、毎日全てのスタンドでトルコの非常事態宣言期における事実が話されているからだ。

さらに私を驚かせたのは、トルコのスタンドに、「オスマン朝から現在まで私たちはとても沢山の本を読み、とても教養が高い。とても沢山の本を出版している」という印象を作るために示された努力だ…。
私はこれをコンプレックスとは言わない。考えてみなさい。ドイツのスタンドに「私たちはナチス支持者ではない」と書いた看板が掲げられる、あるいはイタリアのスタンドで、「ベルルスコーニにはまったく酷い目に遭った」という看板が一番目立つところにかけられる!こんなことがあり得るだろうか?

安心してほしい。ブックフェアは、イデオロギーや政策を売る場所ではない。
思想と表現の自由は、人間の水、空気、食物である。水と空気と食べ物が制限された人は、それでも生きるし、生きようとする。しかし、思想と表現の自由は、民主主義がなければ成り立たない。制限されている時に民主主義はない。たとえ千回あると言っても、おそらくトルコではそれを信じる、あるいは信じているように振る舞う人が出てくるだろうが、世界に説明することは出来ないのだ。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:41475 )