アタテュルク命日、今年も盛大に
2016年11月11日付 Cumhuriyet 紙


トルコ共和国の建国者であるムスタファ・ケマル・アタテュルクが、没後78年の今年、トルコ各地で憧憬と敬意、そして感謝の気持ちとともに命日を追悼された。アタテュルク廟は、厳重な安全対策が敷かれた公式の追悼式典の後、市民に開放され、市民はアタテュルク廟に流れ込んだ。午前9時5分に廟内のトルコ国旗は半旗にされた。時計が9時5分を示すと、トルコ各地でサイレンが鳴り響くとともに人々は動きを止め、全国民がその場で黙祷を捧げた。イスタンブルの市民らは、アタテュルクが最期を迎えたドルマバフチェ宮殿に集った。アタテュルクがまさにそこで目を閉じ、生涯を終えた71番の部屋にあるベッドの上には花束が手向けられた。

■尽きることのない憧憬の念

偉大なる指導者であるムスタファ・ケマル・アタテュルクが没後78年を迎え、憧憬とともに追悼された。公式な追悼式典が開かれたアタテュルク廟では、またもや厳重な安全対策が取られた。アタテュルク廟に非常に早い時間から待機していたトルコ国軍(TSK)の兵士らを除き、市民や多くの上級兵士らは、タイイプ・エルドアン大統領がアタテュルク廟に入った後は中に入れてもらえなかった。9時5分、市民は機動隊とバリケードの前でとどまった。しかし、国の政府高官らがアタテュルク廟を後にすると、それまで中に入ることのできなかった人々も入場することができた。TSKが以前から告知していた「軍と国民が手を取り合う」運動は、参謀司令本部より安全対策を理由に中止された。

アタテュルクがその生涯に幕を閉じて78年目となる今年、時計がまさに午前9時5分を指すと、アンカラのアタテュルク廟で追悼式典が開かれた。式典前には、アタテュルク廟へ続く道路が閉鎖された。式典を見守るためアタテュルク廟に集まった人々の中には上級兵士も含む多くの兵士がおり、彼らは1人ずつ中に通された。10月29日の共和国記念日の際も反発が出た対応から、特に変化はなかった。しかし、兵士らの身分証明書は電子カード読取機によって検査された。

■上級兵士らも中に入れず

式典のため任務を命じられた多くの上級兵士らでさえも、午前8時半以降はアタテュルク廟の中に入ることができなかった。市民や式典に参加予定の学生と引率の教師らでさえも、午前9時5分にトルコ全土でサイレンが鳴り響いたその瞬間は、アタテュルク廟ではなく、その入口門を警備する機動隊とバリケードの前で待機させられた。中に入ることのできなかった市民や兵士らと、アタテュルク廟の外で警備にあたっていた警官らの間では、しばしば衝突が起きた。

エルドアン大統領率いる一団には、ビナリ・ユルドゥルム首相やフルシ・アカル参謀総長、ケマル・クルチダルオールCHP党首、内閣閣僚ら、デヴレト・バフチェリMHP党首、高等司法機関の長官ら、軍司令官ら、国会議員ら、そして官僚らが参加した。

エルドアン大統領は、アタテュルク廟特別記帳に以下のように記した。「私の最大の仕事は、あなたがわれわれに委ねたこの共和国の手綱をにぎることであることを知り、あらゆる分野でより強く、影響力があり、豊かな国となるための道を、われわれは確信をもって歩み続けています。テロ組織や不信心な集団、そしてこうした者たちがツールとして利用している闇の焦点が、われわれの平和や安定、そして1000年にも及ぶ兄弟の絆を破壊すること、またわれわれの国を標的として留め置くことを決して許さない。」

■カフラマン氏は参加せず

アタテュルク廟と国会での追悼式典に、イスマイル・カフラマン国会議長は参加しなかった。カフラマン国会議長は、体調不良のため式典を欠席したと伝えられた。

■ドルマバフチェ宮殿に集まった

トルコ共和国の建国者であるムスタファ・ケマル・アタテュルクの没後78年を記念し、イスタンブルでは憧憬の念とともに追悼された。アタテュルクがその生涯に幕を閉じた午前9時5分、人々の生活が静止した。車道では車を止め、スクールバスや路線バスから降りた市民らが、黙祷を捧げた。アタテュルクが最期を迎えた場所であるドルマバフチェ宮殿には、多くの国民が集まった。地上から何メートルも高い場所で仕事をしていた労働者らも、9時5分になると仕事の手を止めて黙祷した。地上から80メートル離れた高所でクレーンでの作業をしていた労働者も、キャビンの外に出て建国の父を追悼した。

■巨大なトルコ国旗とつながり

ベシクタシュ区は、1011メートルにも及ぶ巨大なトルコ国旗を使って「建国の父への追悼行進」を行った。巨大なトルコ国旗を手に持った何千もの人々は、バルバロス通り沿いにあるサバンジュ高校の前からドルマバフチェ宮殿へ向かって行進した。カドゥキョイ区は、ボランティアの人々の呼びかけで毎年開かれている「建国の父への敬愛のひとつながり」を、フェネルバフチェ・オフィサーズクラブとボスタンジュ海岸遊歩道の間で行った。何千もの人々が手と手を取り合いながら、午前9時5分になると黙祷を捧げた。この敬意のひとつながりに対し、ボートに乗った人々も海岸沿いに止まり、サイレンとともにそのひとつながりに協力した。この追悼行事に参加したCHPのイスタンブル県出バルシュ・ヤルカダシュ国会議員は、以下のようにコメントした。「今日は、毎年訪れるわれわれにとって悲しい日です。ムスタファ・ケマル・アタテュルクを失った日です。ボスタンジュ海岸では、何千もの人々がこの寒さにもかかわらず、建国の父への忠義と共和国であり続けることの忠誠を言葉にするため、朝の早い時間からここに集まってきています。」

■タクスィムで追悼

偉大なる指導者を偲ぶため、タクスィムの共和国記念碑前でも式典が開かれた。この式典には、イスタンブルのヴァスィプ・シャーヒン県知事や、第1軍並びに守備隊の司令官である、ウサ・アヴセヴェル大将、カーディル・トプバシュイスタンブル広域市市長も含む、公共及び市民団体の創設者、政党の代表者、学生、そして首相府災害緊急事態管理局(AFAD)の代表者らが参加した。記念碑に花輪が捧げられた後、アタテュルクと永遠の眠りについた戦士らのために1分間の黙祷が行われた。国歌斉唱の際、国旗は半旗に降ろされた。この間、記念碑の周囲には数多くの市民が集まった。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:41585 )