Fiklet Bilaコラム:女性議員の「乱闘」にみる、暴力の種類
2017年01月21日付 Hurriyet 紙

社会生活の現代における一つの到達点は、いかなる性別であっても暴力に訴えるべきではないということである。

人権、法の支配、民主主義の基礎となる思想、表現、信条の自由を基礎として発展してきた現代の文明は、いかなる人によって行われるものであれ、あらゆる暴力を禁止している。

このために、今日、暴力は思想的な闘争の道具として認められるわけにはいかない。国際法でも国内法でも暴力は罪として認められ、刑罰を与えらえれる。このような状況であるにもかかわらず、社会的・政治的代表のもっとも上部に位置するトルコ国民議会において残念ながら暴力が行使されたことを目にしている。

国会というものが、議員たちが相互に敬意を表するという考えを持って政務に当たり、異なる意見に敬意と品格をもって議論をすることが大前提であるとき、しばしば殴打や足蹴、水のボトルや鉢が宙を舞う闘技場へ変わってしまうことは残念でならない。

ウクライナやタイのような国の議会で目撃されたような光景を非難する社会として、我々は、最近しばしば同じような光景を見せており、頭を垂れる必要がある。

■女性議員の乱闘

議会において暴力は今日まで常に男性議員によって行使されてきた。対立する意見に対して、意見でもって対抗するの代わりに、殴打、足蹴、首絞め、ボトル、携帯電話、鉢を飛ばしながら対抗する男性議員を残念なことに、私たちは見慣れてしまっている。

一昨日、初めて女性議員の間で暴力が振るわれたことが目撃された。髪を引っ張り、引っ叩き、飛び蹴りをした女性議員を我々は目撃した。事故で義手と義足をつけた女性議員が地面に張り倒された。また別の女性議員が別の女性議員の胸部を蹴飛ばしたことが目撃された。トルコにとってあまりにも恥ずかしい光景であった。

■女性の品格

女性議員たちが乱闘を行うことに驚き、反発を見せる時に「女性も」「女性議員すら」と強調されることに読者や視聴者たちは慣れていなかった。この強調は「女性と男性の平等に」そぐわなく、男性上位の言説を反映した考えであると批判された。

当然、暴力に性差など存在しない。男性であれ女性であれ暴力を振るえば同じ反発を受けるべきであり、同じように反対されなければならない。

しかしながら、女性たちが暴力に訴えたことを「驚くべきこと」とすることに驚くべきではない。女性たちが暴力へ訴えたことが、「驚愕」「驚嘆」の範疇で受け止められることは「女性が生まれ持っている品格」と関係する。この品格を男性は生来もっていない。このため、男性は家庭で、社会で、学校で道徳教育で矯正される。男性が生まれ持っている暴力性は、学校と社会の教育で馴らされていく。

女性は生来暴力性を持たない。破壊ではなく保護すること、殺すのではなく生かすこと、怪我をさせたり壊したりするのではなく治療したりまとめること、減らすのではなく増やすこと、死につながるような競争ではなく統一と連帯、戦争ではなく平和がプログラムされている。(Michael P. Ghiglieri, Erkeğin Karanlık Yüzü, Phoenix Yayınları, 2002, s. 165 vd)

女性殺人鬼、女性強姦魔、女性戦士、女性武闘家は、このため男性のそれと比べるとほぼいないに等しい。当然、この生来の特徴は、男性が暴力を行使することを正当化するわけではない。ただ、女性が暴力を行使することをより驚くべきことするのみである。

驚きの原因は、女性が生来生まれ持つ品格の優位性なのである。

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( 翻訳者:岩田和馬 )
( 記事ID:42012 )