イェニ・アキト紙編集長、刺殺ー犯人は娘婿
2017年05月29日付 Cumhuriyet 紙


イェニ・アキト紙の編集長を務めていたカーディル・デミレル氏が、娘婿の手によって刺殺された。

事件は、バシュカシェヒルの4.エタプ・ユヌスエムレ大通り、B42ブロック、32号室で夜に起きた。話によると、17時30分頃、新聞社のハルカルにあるオフィスでの仕事中にカーディル・デミレル編集長へ一本の電話が鳴った。娘とその夫である娘婿が口論になっていると連絡を受けたデミレル編集長は「急ぎの用事ができた」と言って新聞社を後にした。娘夫婦の住む住所へと向かったカーディル・デミレル編集長は、夫婦の仲裁に入るため、娘婿と話を始めた。未だ理由はわからないが、二人の間で口論が起こった。口論はおさまることなく、ジェミル・ヤヴズ・カランフィルは、手にしたナイフで義理の父であるカーディル・デミレル編集長の左腹部を刺した。この時、父親を守るために間に入ったエスマ・カランフィルさんもナイフによって負傷した。娘婿であるジェミル・ヤヴズ・カランフィルは、事件後、逃走し行方が分からなくなった。

事件現場に駆け付けた救急隊は、カーディル・デミレル編集長とその娘のエスマ・カランフィルさんを救急車で、バージュラルにある私立病院へと搬送した。カーディル・デミレル編集長は病院で行われた懸命の処置もむなしく、息を引き取った。娘のエスマさんは重傷であることがわかり、この病院で手術を受けた。

共和国検察官と警察は、事件現場で捜査を続けている。事件に関して多方面からの調査が始められた。

■カーディル・デミレル編集長とは?

1961年ニーデ生まれ。初等教育をカイセリのイェシルヒサル地区で受け、ニーデにあるイマーム・ハティプ高校を卒業した。大学はマルマラ大学神学部で学んだ。学部時代にミッリ紙で仕事を始めた。5年以上ミッリー紙で勤めたあと、サバフ紙へ移り、そこから兵役へといった。

兵役を終え、ザマン紙で仕事を始めた。政治記事の編集、ヨーロッパの発行責任者、中央アジア諸国での新聞発行の立役者ともなった。1998年にモスクワ・ザマン紙において編集長を務めた。

2000年にザマン紙を離れたデミレル氏は、イェニ・シャファク紙で5年以上にわたって記事のコーディネーターを、8年間地域ニュースのディレクターを務めた。2014年11月にイェニ・シャファク紙を離れ、同月イェニ・アキト紙にて記事の執筆、発行委員会メンバーとして働き始めた。2016年5月14日、イェニ・アキト紙編集長となった。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:大畠梨紗子 )
( 記事ID:42742 )