アタテュルクの生地、トルコ人観光客の波―セラニキ
2017年09月03日付 Hurriyet紙


トルコ共和国の創設者ムスタファ・ケマル・アタテュルクが1881年にセラニキ(テッサロニキ)で生まれた家は、クルバン・バイラム休暇のためにギリシャ北部を選んだトルコ人旅行者の最初の訪問先の1つとなっている。博物館として使用されている「アタテュルクの家」に、大規模修復を経て2013年8月16日に再開されて以来、4年間で37万3000人が訪れた。

10日間のクルバン・バイラム休暇のためにギリシャ北部を選んだトルコ人旅行者たちがテッサロニキで訪れる最初の行き先の1つは、疑いなくアズイ・ディミトリス通りと並行のイサイア通りだ…。

夏季と宗教的祝日だけではなく、国民の祝日や更には週末でさえトルコ人旅行者がよく訪れる場所だ、イサイア通りは。この通りを、この4年間で35万人以上のトルコ人と約23,000人の外国人旅行者が通った。この数は、2018年には50万人を超えると期待されている。

小さく狭いこの通りの特徴は、1つの扉だ。そう、1つの扉なのだ。トルコ共和国の創設者ムスタファ・ケマル・アタテュルクが1881年に生まれた家の玄関だ…。

Hürriyet.com.trが調べたところによると、博物館として使用されている「アタテュルクの家」に、大規模修復を経て2013年8月16日に再開されて以来、4年間で37万3000人が訪れた。「アタテュルクの家」に、今年の1月~6月期に62,000人(うち57,000人はトルコ人、5,000は外国人)が訪れた。年末までにこの数が2倍を超えると期待されている。

修復後、2013年に8万人、2014年に9万人、2015年に97,000人が訪れ、7月15日のクーデター未遂によって2016年にギリシャを訪れたトルコ人旅行者の数は115万3,000人から78万5,000人まで減少したのに対し、10万4,000人が「アタテュルクの家」を訪れた。修復前の訪問者数は2010年が24,000人、2011年が41,000人だった。すなわち、修復後大きく増加していることが話題となった。

■建物の歴史

アタテュルクは1881年に生まれ、1860年に建てられた家で7歳まで暮らした。父のアリ・ルザ・エフェンディの死後、母のズュベイデ・ハヌムとともに同じくセラニキのランガダ(ラガダス)郡にあった母方のおじの農場に移り住んだ。アタテュルクは、セラニキで第3軍の指揮官だった時(1907~1910年)、仲間たちとともにオスマン帝国の崩壊の解決策を探すためこの家に集まった。この家は、ローザンヌ条約による交換の一環でギリシャ政府のものとなった。テッサロニキ市は1937年にこの家を購入し、トルコに贈った。アタテュルクの指示によって隣接する家と土地を購入し、そこにトルコ総領事館が建設された。

■事実無根の主張

ギリシャでのアタテュルクに関する事実無根で根拠のない主張の1つが、この家ではなく、ランガダ郡にある別の家が生家だというものだ。いかなる歴史的な文書にも基づかず、一切の学術的研究にも記載のないこの主張は、テッサロニキ市のイアニス・ブタリス市長が2015年2月にイズミルを訪問した際に「ムスタファ・ケマル・アタテュルクの生家をランガダで見た。テッサロニキにある家は彼が育った家だ」と言ったことが、非常に短い期間のこととはいえ疑問符を生んだ。

当時のトルコ共和国在テッサロニキ総領事、トゥールル・ビルテキン氏は、ブタリス氏に手紙を送り、その主張の根拠を質した。ビルテキン氏のこの問いには未だに答えられていない。さらに、私が当時のブタリス氏の顧問リオニダス・マキリス氏に電話すると、「その件には誤解がある。ブタリス氏は、イズミルにランガダ市長とともに行った。会見で、「ランガダ市長はアタテュルクがランガダのフリサヴギ村で生まれたと信じている」と言った。つまり、ブタリス氏は「私が言ったのではない、ランガダ市長はそのように信じている」と言いたいのだ。私はランガダ市役所に電話したが、「こちらからかけ直す」と言われ、2年半が経つが未だに電話は来ていない。

■アタテュルクの生家には何があるのか?

・トルコからもたらされたアタテュルクの50点の私物がある。この50点の中には、アタテュルクの軍帽、ベスト、靴、サンダル、ネクタイ、食事に使用したフォークとナイフのセット、パイプ、
・(マケドニアの)モナスティル少年兵学校在学時のレポートと初代大統領の印のコピー、
・アタテュルクとズュベイデ・ハヌムのシリコン製の胸像がある。

さらに、3ヶ国語(トルコ語、ギリシャ語、英語)の解説パネル付きの映像の上映も行われている。

■いくつかの事実

「アタテュルクの家」博物館には、ムスタファ・ケマルの子供時代の物は何も残っていない。はっきりとは述べられていないが、私見ではおそらく修復前の家具はどれもアタテュルクのものではないだろう。1880年代に使用されていた家具をベースとして似たものを見つけ、配置したのだろう。

当然、以下の疑問が思い浮かぶ。「アタテュルクの生家にはなぜベッドや子供服、もしくは玩具がないのか?」答えは、こちらもはっきりとは述べられていないが、私には理にかなっているように思われる。「1881年にセラニキで生まれ7歳まで1つの家で育った子供が、ある日アタテュルクになると誰にわかっただろうか、そして私物を保管することができただろうか?」

■細い木

毎日10時~17時の間開館している「アタテュルクの家」の庭には、訪問者たちにさらなるサプライズが待っている。1本の細い木だ。アリ・ルザ・エフェンディが植え、アタテュルクが子供の頃影で遊んだ細い木がそこにある。

■テッサロニキ経済への貢献

トルコ共和国在テッサロニキ総領事館の隣接する「アタテュルクの家」周辺の店舗の大部分は、トルコ人訪問者らのお陰で成り立っている。土産物屋で、食堂で、トルコ語の表記が注意を引く。さらに、テッサロニキの地元当局者らと旅行業者はあらゆる機会に「アタテュルクの家」が町の経済に重要な貢献をもたらしていることを強調している。

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(翻訳者:永山明子)
(記事ID:43328)