タラバーニ―・イラク元大統領死去
2017年10月03日付 Hurriyet 紙


イラクで大統領を2期務めた84歳のジェラール・タラバーニー元大統領が、ドイツで亡くなった。タラバーニー元大統領の悲報は、彼が総書記長を務めるクルディスタン愛国同盟(KYB)のインターネットサイト「プクメディア」で伝えられた。同報道では、タラバーニー・イラク元大統領が治療を受けていたドイツの病院で亡くなったと報じられた。タラバーニー元大統領は、イラクで初の非アラブ系大統領だった。イラク・クルディスタン自治政府(IKBY) のバルザーニー大統領は、KYBのトップであるタラバーニー氏が亡くなったことを理由に、同地で7日間の国喪を宣言した。

イラク国営放送も、イラク元大統領およびイラク・クルディスタン愛国同盟党首であるジェラール・タラバーニー氏の死去を報じた。

タラバーニー元大統領は、イラク史上初の非アラブ系大統領として歴史に名を遺した。同氏は、2005年から2014年にわたってイラク大統領を務めた。

タラバーニー元大統領はイラクで大統領を2期務め、2012年12月17日に首都バグダードで脳卒中を起こし、一日おいて飛行機でドイツの首都ベルリンへ救急搬送された。タラバーニー元大統領は、579日間の治療後、2014年7月20日にスレイマニイェに帰国した。

同氏は、今年の7月にイランの首都テヘランを訪問した。

■当初は報道を否定

バグダードで放送されているアル・イラキーヤ放送は、ドイツで治療を受けていたイラク元大統領およびKYB総書記長のタラバーニー氏が亡くなったと報じた。KYB関係者は、当初報道を否定しタラバーニー氏が重篤であるとしていたが、今回イラク・クルディスタン自治政府との密接な関係で知られるルダウ放送が、ドイツで治療を受けていたタラバーニー元大統領の死去を報じた。

■国民投票前に再度ドイツへ

イラク元大統領およびIKBY総書記長のタラバーニー氏は、身体検査のため国民投票前の9月12日に再度ドイツの首都ベルリンを訪れていた。

■IKBYで7日間の国喪

IKBYのメスト・バルザーニー大統領は、イラク元大統領およびKYB議長のジェラール・タラバーニー氏が亡くなったことを受け、7日間の国喪を宣言した。

バルザーニー大統領は、タラバーニー元大統領の死去を受けて読んだ哀悼のメッセージで、「ジェラール・タラバーニーのようなリーダーが我々から離れてしまうことは、人々にとって大きな損失であり、その穴を容易に埋めることはできないであろう」と述べた。

遺族とKBYの人々に哀悼を表したバルザーニー大統領は、タラバーニー元大統領の死去を受け、7日間の国喪を行うと述べた。

イラク議会により職務から外されたKYBのネジメッティン・ケリム・キルクーク県知事も、タラバーニー元大統領の死去を理由に同市にあるすべての旗を半旗にするよう指示を出した。

KYBが支配力を持つスレイマニイェをはじめ、キルクーク、アルビル、ドゥホークの党本部前に集まった多くの人々は、タラバーニー元大統領の写真の前で蝋燭を灯しながら死を悼みはじめた。

タラバーニー元大統領は、遺言を受けて生地アルビルのコイサンジャク郡で埋葬されると思われるが、KYBは埋葬と服喪の予定についてまだ発表を出していない。

■ジェラール・タラバーニーとは?

ジェラール・タラバーニーとして知られているジェラール・ヒサメッディン・ヌラッラー・タラバーニー氏は1933年に、アルビルのコイェ郡に属するケルカン村で生まれた。タラバーニー氏は、1955年にバグダード大学法学部で教育を受けながら、同時に政治に関わり始めた。タラバーニー氏は、法学の勉強を1959年に終えた。

クルド人が1961年にイラク政府に対し始めた反乱を率いたタラバーニー氏は、この後クルディスタン民主党(KDP)の一派に加わりペシュメルゲとなった。同氏は、1971年にイラクのクルド人の政治的関係を発展させ、および他の武装集団とのつながりを構築するためにレバノンの首都ベイルートに向かった。

タラバーニー元大統領は、KDPから離れたあと、シリアの首都ダマスカスで数人の友人とともに1975年にKYBを創設した。

■サダム・フセインへの反乱

KYBを介して、KDP以後スレイマニイェをはじめキルクークやアルビルで重大な支持層を獲得したタラバーニー氏は、特に1980、90年代にサダム・フセインに対して始まった反乱で重要な役割を果たした。

タラバーニー氏はさらに、IKBY大統領のメスト・バルザーニー氏の弟、イドリス・バルザーニー氏とともに1986年にクルド戦線を、イランの首都テヘランで創設した。

イラクで1991年に勃発した反乱後、タラバーニー氏率いるKYBはスレイマニイェやアルビルで影響力を増していった。創設以降KYBの3つの会議すべてでタラバーニー氏が総書記長に選出された。1990年代にはイラク・クルディスタン自治政府で、アルビルに続く第2の自治拠点スレイマニイェでリーダーとして1期務めた。

■バルザーニーとの殺伐とした闘争

1994年、バルザーニー氏率いるKDPとの殺伐とした闘争に突入したタラバーニー氏は、1998年にアメリカ合衆国の主導のもとワシントンでバルザーニー氏と協定に調印し、4年におよぶ内戦を終わらせた。

イラクの転覆されたリーダー、サダム・フセインがアメリカの侵攻で転覆されたあと、タラバーニー氏は2005年4月6日に「イラクで最初のクルド人大統領」として選出された。アメリカの試みで造られたイラク憲法に基づき、タラバーニー氏は2010年に2度目の大統領として選ばれた。

イラクで2期大統領を務めたタラバーニー氏は、2012年12月17日に首都のバグダードで脳卒中を起こし、一日おいて飛行機でドイツの首都ベルリンに救急搬送された。同氏は、579日におよぶ治療ののち、2014年7月20日にスレイマニイェに帰国した。

タラバーニー氏は、再度治療を受けるため7月9日にテヘランに、その後はドイツに向かった。元大統領は、治療を受けていた病院で10月3日に亡くなった。

ヘロ・イブラヒム・アフメドと結婚しているタラバーニー氏には、パヴェルとクバトという2人の子供がいる。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:金戸 渉 )
( 記事ID:43496 )