サウジアラビア:サウジアラビアの映画産業…数十年の年月を経て夢が実現
2017年12月12日付 al-Hayat紙


■サウジアラビアの映画産業…数十年の年月を経て夢が実現

【アハサー:アフマド・ルワイシド】

ムハンマドは、後に皆の間で語り継がれるようになった父アリーに関する笑い話を話してくれた。アリーは1940年代初頭、(サウジ国営石油会社)アラムコの従業員として勤務していた。彼は、アラムコの外国人従業員の家族のために野外で上映していた映画の巨大スクリーンを偶然目にし、壁に映し出された巨大な人々を見て衝撃を受けた。それから2日間、彼は眠ることができなかった。

ムハンマドは、「父は凄まじい恐怖に襲われたのです、当時はテレビ画面も見たことがありませんでしたから。父は偶然、巨人が真ん中で動く巨大スクリーンを見てすっかり興奮してしまい、それから2日間眠ることができませんでした。父が映画に初めて触れた体験は、非常に恐ろしいものだったようです」と語る。

サウジアラビアに映画館が入ってきたのは1930年代のこと。アラムコの前身であるカリフォルニア・アラビアン・スタンダード・オイル・カンパニー(CASOC)を通して、非サウジアラビア人を対象に入ってきた。サウジアラビア初の映画館の場所は、同社の集合住宅だった。映画館の利用は西洋諸国出身の従業員及びその家族に限定され、この状況は1970年代まで続いた。

1970年代に入ると、小規模ではあるもののスポーツ・クラブが映画の上映を行うようになり、それはまるでサウジアラビア人達の不定期集会のようであった。また、一部の富裕家庭ではビロードの服を着た人々が招かれ、選ばれた者だけが集まる上映会が行われた。これらの富裕家庭は海外やアラブの映画を競うようにして買い求めた。ジッダやリヤド、ターイフ、アブハーのとある邸宅は、映画の上映をしばしば行っていることで知られるようになった。しかし、定期的に上映を行う映画館は依然として存在しなかった。

一方、サウジアラビアの文学クラブや文化・芸術協会は宗教界が映画館に関して発する警告を無視し、短編・長編の映画祭やコンペを敢行した。こうした催しは次々と成功をおさめ、映画製作を渇望する若者たちのエネルギーを惹きつけた。サウジ国内の劇場が非公式に映画館へと姿を変え、そこでサウジ人が製作した映画の上映やコンペが開催されたことは衝撃的な出来事だった。しかし、これはタブーを破る大胆な一歩であった。

映画館の開館は若者たちの夢であった。近隣の湾岸諸国にある映画館は、今でもサウジ人の家族でいっぱいだ。彼らは長距離移動を経て(近隣諸国の)映画館に詰めかけ、最新の映画作品を鑑賞する。サウジ人の鑑賞客はそうした映画館にとって重要な収入源の一つであり、バハレーンやドバイ、クウェートの映画館はサウジ人観光客を惹きつける主な要素の一つである。サウジアラビアのアワード・アル=アワード文化・情報大臣は昨日(11日)映画館の営業解禁を決定したが、これにより近隣の湾岸諸国はサウジ人鑑賞客の多くを失い、影響を被ることが予想される。そして、サウジ人鑑賞客にとっては、最新の映画作品を見るために長距離を移動しなければならないという心配は過去のものとなった。

今回の決定は、海外や他のアラブ諸国、さらには世界レベルで競争できる映画の製作に向けて一層尽力するよう、サウジアラビアの映画製作を促すことになるだろう。映画館が「存在しえない7つの物」(※この世に存在しえないものを挙げたアラブの寓話。寓話では不死鳥や真の幸福、誠実な友人などが挙げられており、筆者はサウジアラビアで長らく映画館が禁じられていたことを指してこのような表現を用いている)の一つであった時も、サウジアラビア映画は海外や他のアラブ諸国の作品と張り合っていた。国際映画祭でも受賞候補に挙がるなど、国内に映画館が存在しないにもかかわらずサウジアラビア人監督は大きな影響力を有してきた。

サウジアラビアの映画製作は、1950年制作の映画「蠅」に始まる。芸術家ハサン・ガーニムは、サウジ映画史上最初のサウジ人映画俳優の称号を手にした。その16年後、サアド・ファリーフ監督作品「良心の呵責」が公開され、さらにその11年後には映画「ある街の暗殺」が公開された。そして1980年には、巨匠サアド・ハダル監督作品「まだ見ぬ人との逢瀬」が公開され、2時間半にわたるサウジアラビア初の長編映画となった。

90年代初頭には、サウジアラビアのアブドゥッラー・ムハイスィン監督が映画「衝撃」を発表した。この映画には、クウェート侵攻と解放、そしてこの戦争が中東地域に引き起こした影響について、監督独自の目線から語ったナレーションが含まれている。そして2000年から現在に至るまで長編・フィクション・短編含め59本以上のサウジアラビア映画が公開されており、これは映画製作業界に起きた一大革命であった。

サウジ国内の映画製作に関する正確な統計は存在しないが、製作本数は長編、短編、フィクション、喜劇、悲劇、アクション含めて260本を越え得る。サウジアラビアの映画製作は、製作に情熱を傾けるサウジの若者たちによる実験の域を出ていない。彼らの国には映画館がない。しかし、こうしたサウジアラビア映画は他国で大いに歓迎されている。サウジアラビアの女性監督ハイファー・マンスールが制作した映画「少女は自転車に乗って」はアカデミー賞候補に選ばれ、一大センセーションを巻き起こした。マンスール監督の作品は自国の映画館で上映されることはなかったが、同監督は世界で最も名高いコンペティションの受賞候補になる作品を生み出すことに成功した唯一の実力派映画監督となった。

サウジアラビア映画製作を促進させるという若者たちの挑戦を支えるべく、ダンマームやジッダ、リヤド、メディナ、アフサーの文化・芸術協会といった組織の下、映画祭が様々な都市で公式開催されるようになり大きな反響を呼んだ。直近の映画祭はダンマームの文化・芸術協会が開催したサウジアラビア映画祭であり、112本以上の映画が上映された。これはサウジアラビアの映画製作の力を反映した、驚くべき出来事であった。

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(翻訳者:北本芳明)
(記事ID:43953)