共和国史の影に、ディシュリ一族あり
2018年09月29日付 Cumhuriyet 紙


先週議論となった話題の1つに、ボル砂糖工場のディシュリ一族への売却がある。ディシュリ一族といえば、考える必要がある。ハサン・ディシュリは(1970年代後半の)MC政府の時代に村民の牧草地に「住み着いた」。アメリカとの関係を取り仕切ったシャバン・ディシュリは、AKP政権のあらゆる時期で無視できない人物となった。今はハーグ駐在の大使だ。その弟のメフメト・ディシュリ将軍は、FETÖ裁判で裁かれている。

メディアの先週最も多く議論された話題は、ボル砂糖工場が民営化から6ヶ月を待たずしてディシュリ一族へ再売却されたこととなった。ボル砂糖工場が民営化担当庁によって売却に出された際、ドウシュ食品製造株式会社は、3億3,600万リラでこの工場を購入した。工場を購入したドウシュ食品製造株式会社は、6ヶ月という短期間でこの工場に「冷めて」、DSL建設産業貿易株式会社に転売するために公的な組織に申し出を行っていた。民営化によってボル砂糖工場を購入したこの企業は、なぜこれほど短期間で工場を移譲しようと思ったのか。有益に思えなかったというのならば、民営化に入札する際にあらゆるバランスシートを調べ、それにより入札を行うべきだった。工場をよりよい価格で転売しその売却によって利益を得るためというのならば、工場に6ヶ月間で最善を尽くし、その価値が急上昇したと考えるものだ。工場民営化時の入札における価格以上の金額を支払ったのであれば、DSL建設産業貿易株式会社自身がなぜこの金額で入札しなかったのかという疑問が出てくる。残る選択肢は1つだ。DSL建設産業貿易株式会社は、ボル砂糖工場を直接購入することはできなかった。なぜなら、ディシュリ家がAKPにおいて有力であるため、スキャンダルとなりえたからだ。そのため、明白ではあるが、仲介者を使い、今回もこの方法で工場を購入しているのだ。

■土地ゲーム

ディシュリ一族について、少し立ち止まって考えてみる必要がある。元AKP副党首シャバン・ディシュリ氏は、2週間前に在オランダ大使に任命された。そのシャバン・ディシュリ氏はといえば、2008年にスィリヴリでイギリスのTesco社の所有する土地で権利を持つ公共事業の変更のために100万ドルで協定に署名し、3兆の土地を48時間以内に17兆の価値に到達させた。この仲介は書類で証明されているにもかかわらず、ディシュリ氏は、何ヶ月も後にAKPの副党首職を罷免されて体面を繕っただけだった。ディシュリ氏の行ったことを野党議員が行っていれば、即座に免責特権を奪われ裁かれていただろう。

■公共事業計画を変更

ディシュリ氏の公共事業に関する巧妙さは、スィリヴリでの土地の件のみに限られたことではない。サパンジャでいとこの所有する河床に行われた工場の閉鎖に対し、公共事業計画を変更させ工場を破壊から救った。この公共事業計画変更においては、アダパザル広域市市長である別のいとこのスレイマン・ディシュリ氏も当然彼を支援した。シャバン・ディシュリ氏は、AKP政権のすべての時期において無視できない人物となった。ディシュリ氏は、同党が政権をとった2002年に中央執行委員会(MYK)に入り、アメリカとの関係を実行する2人のうちの1人となった。ジュネイト・ザプス氏とともに、「我々を穴に落とさず使うべきだ」との対話がなされた会議にも参加した。(2003年)3月1日の覚書危機以降、アメリカとの関係正常化のために、ディシュリ氏は米下院の議員と会談を行った唯一の人物だった。
シャバン・ディシュリ氏の任務はアメリカとの関係を軌道に乗せることだけではなかった。キプロスでのアナン・プランをトルコ側に認めさせることにも尽力した。このプランに抵抗したデンクタシュ氏を説得できないと見ると、サラミス湾ホテルでキャンプを行い、議員らのために説得部屋で何日間も機嫌をとった。シャバン・ディシュリ氏は、自分の名前ではなくシャバン・ボレル、シャバン・ボレキ、シャバン・イペキといった偽名でホテルをとり、デンクタシュ氏の党から議員を誘惑し、キプロスでギリシャ系住民にマラシュを与えること、ガーズィ・マゴサ港をEUとの共同管理とすることに少なからず近づいた。

■現在は大使に

これらの事件のどれ一つとして彼をそれほど煩わせるものではなかったが、ああ、例の7月15日のクーデター未遂事件で弟のメフメト・ディシュリ将軍の役割が表に出たことはなかったか、さてその時大いに困難な日々となった。同じAKPの議員たちさえ罷免を望んだ。かなりの抵抗ののち、党での職を解かれた。幸運にもリーダーは彼の才能と能力に気づいていたとはいえ、一方で、心から彼が居座ることを望んでもいなかった。2018年9月7日にオランダ大使に任命された。弟のメフメト・ディシュリ氏は未だにFETÖクーデター未遂裁判で裁かれている。クーデターに加わった将官たちは、最下級の士官でさえKHKによって罷免された一方、ディシュリ一族にはもちろんこの条件は適用されなかった…。

■おじのハサン・ディシュリ氏

ディシュリ一族に「政府の牙」はAKP政権下においてのみではなく民族前線(MC)の時代にも向けられなかった。ディシュリ一族のおかげでトルコの最初の村民の反発が起こった。シャバン・ディシュリ氏のおじ、ハサン・ディシュリ氏は、1976年当時公正党(AP)所属のゲイヴェ市長だった。ゲイヴェのサパンジャ川の岸辺にあったウムルベイ村で川岸の国有地で村の牧草地とされていた土地に作付けを行った村の人々に発砲し、警棒で連打して恐怖させ掌握したことに対し、全村民が立ち上がった。郡知事、知事、警察署長から特権を得ていたAPのハサン・ディシュリ市長は、武器による傷害と打撃の罪によって逮捕されかけたものの、毎回1日後には釈放されふたたびウムルベイ村を脅かしていた。アリ・フアト・パシャ中学校の教師と争ったことも、私財局長を打擲したことも、土地に侵入したとして牛をロープで縛りサカルヤ川に落としたことも、全て無罪となった。

■牧草地を強制的に購入

村人たちに「私には精神病の証明書がある。50人を殺しても私を逮捕することはできない」と言って、村の1,000ドニュムの土地に住み着いていた。村人たちが登記当局に、郡知事に、知事に、そして警察に行った申し出は成果を上げなかった。最終的にある同胞がさらに武器で負傷したことを受け、村人たちは限界を迎え、トラクターを使って郡中心部で行動を起こした。ウムルベイの村人たちが100台ほどのトラクターでゲイヴェのメインの通りを封鎖したこの行動は、トルコで大きな反響を呼んだ。当時、本紙からヤルチュン・ペクシェン記者もゲイヴェに行き、事件現場で調査を行い2日間一連の記事を書いた。

ディシュリ一族は、70年代から現在までつねに国家財政の背後にいた。ディシュリ一族に称賛を、クーデター未遂にも加わり民営化前の工場も閉鎖し、証書のある土地に対し個人的な利益で公共事業を変更させ、対価を支払っているのに、常に称賛されている。
なんとも見事ではないか…。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:45454 )