オメル・セイフェッティンの恐ろしい死
2018年12月01日付 Milliyet紙


「馬櫛」、「贖罪金」、「桃色真珠のカフタン」…我々の中でこれらの作品を読まなかった者がいるだろうか?オメル・セイフェッティンが生み出したこれらの作品はトルコ文学において重要な位置を占めている。

オメル・セイフェッティンは1884年にバルケスィル県ギョネン郡にて生まれた。初めは帝国初等学校で学んだが1893年に就学年齢を迎えてからは陸軍獣医学校に入学した。1896年で修了してからはエディルネ軍人高等学校に進学した。1900年に同学校を卒業後、イスタンブールに戻っている。そして陸軍士官学校に入学した。

オメル・セイフェッティンは卒業後、歩兵准尉としてテッサロニキに基地を置く第三軍のイズミル予備役師団所属クシャダス予備役大隊に配属された。1906年にはイズミル郡警察学校の教師に任命される。セイフェッティンは1909年1月にテッサロニキ第三軍に配属された。テッサロニキで刊行されていた「美と詩」誌がアキル・コユンジュの希望に沿って「若いペン」誌へと名前を変えてから1911年4月11日にオメル・セイフェッティンは「新言語」を執筆、同誌の初の社説として匿名で発表された。

「若いペン」執筆陣メンバーはバルカン戦争の勃発のため散り散りにならざるをえなかった。オメル・セイフェッティンも再び軍に招集されている。イオアニナ包囲戦にて捕虜となり、ナフリヨンで虜囚として1年を過ごすも読書を続けている。「マフディー」、「自由の旗」といった作品をこの時期に生み出した。彼の作品は「トルコ国家」誌にて発表された。捕虜となっている間も読みつつ、そして様々なことを体験し、作家人生にとって重要な経験を得た。

オメル・セイフェッティンの死は全くもって恐ろしいものだった。セイフェッティンは1920年に糖尿病のため、ハイダルパシャ病院に搬送されている。カドゥキョイ近郊の自宅で一人で暮らしていたセイフェッティンは自身が糖尿病にかかっているなど知る由もなかった。なぜなら糖尿病というものもましてインスリンなどというものも知られていなかったのだ。

セイフェッティンは食事ができなくなり、徐々にやせ細っていった。彼の最も親しい友人であるアリ・ジャーニプはセイフェッティンを心配し、自宅から彼のところまで食事を運んでいる。医者はといえば果物を大量に食べ、果実水を飲むように勧めたのである。セイフェッティンの病状は次第に悪化し、病院で寝ている間、目を開けることもままならなかった。病院に運び込まれてから2週間後、彼は永眠した。

死後、彼の身体を解剖用の死体として医者たちは利用しようとした。病院でこの有名な作家を知る者がいなかったのだ。このため医者たちは無名の死体と見なし、医学生たちは彼の遺体を解剖用の死体として利用したのである。作家の首までもが切り離された。

その時の写真が新聞に掲載され、それによってセイフェッティンを知る者達が病院に押し寄せてきたのである。しかしすべては後の祭りであった。トルコ文学で最も重要な人物の一人、オメル・セイフェッティンは孤独に死に、体の一片たりとも墓に埋められることはなかったのだ。

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(翻訳者:市野太音)
(記事ID:45832)