国歌「独立行進曲」の物語
2019年03月12日付 Milliyet紙


トルコ大国民議会により1921年3月12日に「独立行進曲」として認定された。メフメト・アーキフ・エルソイによって作詞され、オスマン・ゼキ・ウンギョルによって作曲された。このようにして興味深く研究されている「独立行進曲」の歴史とは…。

「独立行進曲」の歌詞は、トルコ革命のさなかにメフメト・アーキフ・エルソイによって書かれた。エルソイは独立戦争で勝利するという確信と、トルコ軍の勇敢さと自己犠牲、トルコという国家の独立、アッラー、国土、宗教への所属を表現した。

■3月12日に国家として認定された

1921年3月12日に第一回トルコ大国民議会によって「独立行進曲」として認定された。作曲はオスマン・ゼキ・ウンギョルによる。管弦楽編曲はエドガー・マナスによって編曲された。

事前に選ばれた7つの詩について1921年3月12日にムスタファ・ケマルの開いた議会で話し合われた。メフメト・アーキフの詩は議会の壇上でハムドゥッラー・スーフィによって朗読された。詩が読まれると、議員たちは大いに感動し、他の候補者の詩を読まれるまでもなかった。数人の議員による反対にも関わらず、メフメト・アーキフの詩は熱狂的な拍手とともに採択された。

詩へ最も苛烈な批判を加えたのは、キャーズム・カラベキルであった。キャーズム・カラベキルは、1922年7月26日にラウフ暫定首相へ宛てて書いた手紙において、選考結果の取り消しを要求し、批判を述べた。しかし批判を受けたものの、歌詞の変更は行われず、キャーズム・カラベキルもこの件に関してさらに強く変更を求めることはなかった。

■賞金を寄付

メフメト・アーキフは、手にした500リラの賞金を貧しい女性や子供に仕事を教え、貧困に終止符を打つために設立された縫製財団へ寄付した。

国が戦時中であったために、アーキフの詩の作曲は2年延期された。1923年2月12日にイスタンブル教育局へ作曲コンテスト開催の任が与えられた。

■独立行進曲

恐れるな!暁にたなびくこの赤い旗は、決してなくなる事はない
消えることなく、我が祖国の上に煙たなびく最後の炉
それは我が民族の星、キラキラと輝く
それは我がもの、唯、我が民族のものなのだ
 
額を歪めるな、お前のために犠牲となろう、たなびく新月旗よ
勇敢なる我が民族に微笑め。何という激しさ、何という怒り
しかし、微笑まなければ、流れた我々の血がお前のものとならない
独立は、神を慕う我が民族の権利である
 
私は太古から自由に生きてきた、そしてこれからも自由に生きる
一体どんな輩が私を鎖で叩くというのか?馬鹿な!
私は荒れ狂う洪水のようだ、堰を越え、溢れ出す
山々を引き裂き、大洋へ出ても収まらない、さらに溢れる
 
鋼で覆われた壁が、西方の地平線を取り囲んだとしても
私には信仰で満ちた胸と同じように、自由な境界がある
気高い国民よ、恐れるな!お前が<文明>と呼んだ、歯の抜け落ちた野獣が
この信仰を一体どうやって抑えつけるというのか
 
友よ、我が国土に卑しきものを入れてはならない、決して!
守るのだ、この恥知らずな襲撃の本体を押し止めるのだ
お前に神が約束された日々が訪れようとしている
それが明日か、明日よりもっと近いか、誰にわかろう
 
今踏みしめている場所はただの<土地>ではない、知るがよい!
思い出せ、足下に幾重にも埋められた白布に包まれない死体を
お前は、殉教者の息子なのだ。父祖を傷つけるな。それは、恥ずべきこと
渡すな、たとえ世界を手に入れようとも、この天国の如き祖国だけは
 
だれがこの天国たる祖国のために犠牲になれないだろうか
殉教者が地面を埋め尽くそうとも、さらに殉教者が溢れ出す
神よ、私の魂、最愛の者、私の全てに替えても
私を、この世界で唯一の祖国からだけは引き離すな
 
我が魂のあなたへの唯一の望みは、次のこと
余所者の手が、我が聖なる場所の胸もとを触らないように
エザーン――信仰の告白は宗教の礎――が
永遠なる我が祖国の上に響くべし
 
もし私の墓石が残っているならば
その時、恍惚として千回ひれ伏すであろう
ああ神よ、あらゆる傷口から、血の涙が溢れ出す
若者の魂の如く、地面から私の屍が甦る!
その時、私の頭は上昇しつづけ、最上天に達する!
 
ああ、誉れ高い新月旗よ、お前も暁の太陽のように波打つがよい
流れた私の血の全てを、ついにお前のものとするがよい
永遠に、お前に、そして我が民族に滅亡はない
自由は、自由に生きてきた我が新月旗の権利
独立は、神を慕う我が民族の権利なのだ

■メフメト・アーキフ・エルソイの人生

メフメト・アーキフ・エルソイは、1873年12月にイスタンブルのファーティフ区、カラギュムルク地区、サルギュゼル街区で生まれた。学校卒業後、農産省(森林)で働き始めたメフメト・アーキフは、公務員として1893年から1913年まで勤めた。省での最初の仕事は獣医師の補助であった。職場はイスタンブルだったが、公務員としての最初の4年間は検査のためにルメリア、アナトリア、アルバニア、アラブ諸国にも行った。このため人々と親しくなることができた。

メフメト・アーキフは、文学への関心を、詩を書きながらそして文学教師を行いながら持ち続けた。レシムリ紙やセルヴェティ・フュヌーン誌で詩とコラムが掲載された。イスタンブルにいた頃、省での任務の一方で、ハルカル農業・獣医学校(1906年)で作文、その後畜産技術学校(1907年)でトルコ語教師として配属された。

メフメト・アーキフは、詩を書くことを獣医学校での学生時代に始めた。初めて掲載された詩は「コーランへの辞」という題であった。1908年から韻文形式の物語を書き始めた。物語の中で人々の抱える悩みや問題を明らかにした。バルカン戦争の頃から叙事詩を書き始めた。最初の大きな叙事詩は、「チャナッカレの殉死者へ」という題であった。2つ目の大きな作品はブルサ占領に関して書いた「ナイチンゲール」という題の詩であった。3つ目では独立行進曲を書き、独立戦争を表現した。

「芸術のための芸術」という考えに反対するメフメト・アーキフは、宗教的観点の重要性を文学的手法に盛り込んだ。文学的言語として国家文学の潮流に反対し、文学における西洋化についてテヴフィキ・フィクレトと衝突した。

国民教育相ハウドゥッラー・スーフィの要請を受け友人のハサン・バスリが、メフメト・アーキフを国歌コンテストに参加するよう説得した。設定された500リラの賞金のため、最初はこのコンテストへの参加を拒否したが、それまでに送られた詩が一つもふさわしくなく、最も素晴らしい詩はメフメト・アーキフが書く詩だと議会で信じられていた。メフメト・アーキフがコンテストへ参加することを認めると、数人の詩人はコンテストを辞退した。詩人が軍へ捧げた独立行進曲は、2月17日にスラト・ミュスタキム紙とハーキミイェティ・ミッリイェ紙に掲載された。ハムドゥッラー・スーフィによって議会で読まれた後、1921年3月12日金曜日、午後5時45分に国歌として可決された。アーキフは、賞として得た500リラを赤新月協会に属し、女性と子供の職業教育と前線へ送る服を縫っている縫製財団に寄付した。

肝硬変に罹患すると、空気が変わればよくなるという考えのもとまずレバノンへ、その後アンタキヤへ行ったが、エジプトへ病人として帰った。1936年6月17日に治療のためイスタンブルへ戻った。1936年12月27日、イスタンブルのベイオールのエジプトアパートメントで亡くなった。エディルネカプ墓地に埋葬された。墓地は2年後大学の学生によって作られた。1960年に道路工事のためにエディルネカプ戦死者墓地へ移された。墓は、スレイマン・ナズィフと彼の友人アフメト・ナイムの墓の間にある。

メフメト・アーキフへ1936年6月1日以降478リラ20クルシュの退職金が与えられた。この退職金は1936年10月以降に支払われ始め、合計2976リラを手にした。退職金口座の最後には「600リラの借金」という文字が綴られていた。この借金が無くなった後、残りは家族に与えられ、メフメト・アーキフはこれから2ヶ月後に亡くなった。

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(翻訳者:森彩音)
(記事ID:46438)