ニュージーランド・モスク襲撃犯、トルコでの足跡
2019年03月20日付 Hurriyet 紙


ニュージーランドのクライストチャーチで2つのモスクに銃を乱射し、50人を犠牲にした28歳のブレントン・タラントは、2016年3月、マニフェストにおいてそのミナレットを破壊すると脅迫したアヤソフィアすぐ近くのホテルに3泊し、同年10月にもファーティフ、アクサライのホテルで3泊したことが明らかになった。

タラントがイスタンブルの他にもアール、スィヴァス、トカト、コンヤ、アンカラ、エディルネ、イズミルとメルスィンにも行ったことが確認された。タラントは訪れた町で歴史的な出来事が起こった場所を回っていたことが明らかになった。

■単独で行動

ブレントン・タラントは、2016年3月17日、イスタンブルを訪れ、ファーティフへ行った。アヤソフィアすぐ近くのアレムダール通りにあるメリフホテルに宿泊した。1泊あたり19ユーロのホテルで3泊したタラントは、朝ごはんはいらないと言った。ホテルの予約はブッキングサイトからした。二階にある部屋に泊まった。6ヶ月前にオーナーが変わり、改装が施されたホテルの部屋に一人で泊まった。3日間アヤソフィア、地下宮殿、そしてその他歴史的な場所を訪れたあと、トルコを離れた。ホテルのオーナーが変わったことにより、ホテルの従業員や周りでタラントを覚えている人はいなかった。警察は、銃乱射事件がタラントの犯行だと明るみに出た後、ホテルを訪れ、調査を行った。

■ヴラド3世が投獄されていた城を訪れた

ブレトン・タラントは、この訪問の6ヶ月後、9月13日に再びトルコを訪れた。アール県のドーウベヤズットへ行った。続いてスィヴァス、トカト、コンヤとアンカラにも行った。タラントがトカトを訪れた際、メフメト2世によって捕虜にされていたヴラド・ツェペシュとして知られるワラキア公国君主ヴラド3世が幽閉されていたトカト城を観光していたことが明らかになった。

■殺人鬼が我々のホテルに泊まらなければよかったのに

アンカラで4日間過ごしたタラントは、2016年10月6日に再びイスタンブルを訪れた。ファーティフ、アクサライにあるシネムホテルの303号室に宿泊した。1泊あたり24ユーロのホテルに一人で泊まった。ホテル支配人のオスマン・ヤシャル氏は、「2016年に3泊した。インターネットからの予約だった。3日間泊まってその後ここを離れた。従業員が変わったため彼を覚えている人はいない。以前ここで働いていた友人にも聞いたが友人も覚えていなかった。こんな殺人鬼が我々のホテルに泊まらなければよかったのに。とても悲しい気持ちでいる。」と述べた。

警察はシネムホテルでも調査を行った。タラントが予約の際に名前以外の、電話番号などの個人情報を伝えていなかったことがわかった。

タラントは、イスタンブルで3泊した後、エディルネへ向かった。エディルネで6泊したタラントは、エディルネとその周辺県の歴史的な場所を回った。タラントはその後イズミルへ向かった。ここでもあるホテルに泊まったタラントは、イズミルで7日過ごした。この間、セルチュークに向かい巡礼した。イズミルで他に、チェシュメも訪れていた。1770年7月6日にロシアの艦隊がオスマン帝国の艦隊を破った戦争のあった場所を訪れたことが明らかになった。

タラントは、イズミル旅行のあと、2016年11月22日メルシン県のエルデムリに移った。4日間この県に泊まったタラントは、2016年11月26日、イスラエルのテルアビブへ移動した。

■10月2日、アンカラにいた

諜報機関の調査によると、ブレントン・タラントは2016年10月2日にアンカラに来た。アンカラのミッドタウンホテルに宿泊したことが明らかになっているタラントは、その後アンカラを後にした。現在まで行われた調査で、タラントがアンカラのどこに行ったか、誰と会っていたか、もしくは街のどこをまわっていたかに関する情報は手に入れられていない。ヒュリエット紙の「ブレントン・タラントはアンカラでアタテュルク廟を、もしくは議会へ行った可能性はあるか?」との質問に答えた幹部クラスの治安関係者は、「現在、アンカラのどこを訪れたかに関する証拠はない。ただ、アンカラで1泊した後別の場所に移ったという具体的な情報を持っているだけだ。」と述べた。

この治安関係者はトルコ全土で調査が続けられていることを明らかにした。

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( 翻訳者:内山千尋 )
( 記事ID:46471 )