都市開発が変えたもの...
2019年04月22日付 Cumhuriyet紙


女優サーデト・ウシュル・アクソイと俳優エロール・アフシンが主役を演じた映画『Saf(帰属)』は、都市の変容の過程で人生が一変してしまった、とある夫婦の人生にスポットを当てた作品だ。

都市の変容が近年のトルコで最も深刻な問題の一つであるという事に疑いの余地はない。いつの時代であっても、私たちが暮らす街のとある地区や通り、それどころか細道においてすら新たな公共事業が始まり、ごくわずかな期間で私たちの生活基盤を大きく影響することなしに日々が過ぎるということはない。マルディンでもそうだし、アンカラやトラブゾン、もしくはイスタンブルにおいても同様だ。この過程で家を立ち退く人々がいれば、その家を売り払って、大金を得る人々も存在する・・・

都市問題について調査を行い、大学で講義を持つ学者でもあるアリ・ヴァタンセヴェル氏の新作映画『Saf』が、トロント映画祭で初公開された。最近では第38回イスタンブル国際映画祭にて観客と邂逅したこの作品は、この都市の変容が個人にもたらす破滅に警鐘を鳴らす。エロール・アフシン、サーデト・ウシュル・アクソイ、オヌル・ブルドゥなどの役者が出演する本作品は今週から劇場公開され、私たちはアリ・ヴァタンセヴェル氏にインタビューをした。ヴァタンセヴェル氏は、都市の変容が私たちの生活を変えてしまったと話し、対立や帰属意識ではなく、私たちの共通の問題について知恵を絞ることの意義を強調している。

映画のタイトルから始めましょうか。「Saf(帰属)」とは一体、何を説明しているのでしょうか?ある登場人物の事なのか、それとも何かの状況のことなのでしょうか。

『Saf』は、この時代において、私たちがいくつもの問題に囲まれていると考える中、人間が人間らしくあり続ける事は本当に可能であるのかどうかという事を問いかけています。二人の主人公がフィキルテペという地区で日常的に数々の問題に巻き込まれ、困難な土地で生活の闘いを続ける中で、彼らの内面に起こる変化を描いています。周囲の人間から認められるために(その地域の)グループを、帰属する場を選ぶことを与儀なくされた人々と、登場人物のキャーミルがこの事態の中で孤立していき、妻のレムズィェが生活を守り続けようとするのを私たちは目にします。

帰属するという問題は、実際のところ映画が避けようとしたものではありませんか?

この映画は、帰属することの虚しさを描いたものです。生活を守るために対立したり、敵を作りだす事は必要ないということを、敵対している人々に接した時に、あらゆる違いにも関わらず我々が共通の困難とそれに対する苦闘の中にいるという事を、白黒で割りきって世界を理解するのではなく、グレーのトーンを映し出す映画が『Saf』なのです。

■「私たちは一つの肉体に囚われている」

それは映像的なつくりにおいても分かります。「カット・バック (訳注:映像制作で一般に、対話をする二人の被写体を交互に撮影すること)」の手法が特に使用されず、カメラは人物たちもしくは事件の数々を一定距離から捉える以外、とくに仕事をしません。これは意識的に選ばれたことであるに違いありませんね。

観客がフィキルテペを、登場人物を通して体験できるよう、彼らが物語ることを異なる視点から追うのではなく、また何かを強調する事なく物語を展開する事を重視しました。私たちは生きる中で一つの肉体に囚われてしまっています。この体で人生を体験し、どんどんと価値判断や偏見をもつようになります。観客も映画において、まずはキャーミル、そのあとにはレムズィェの「視点で」フィキルテペの生活を体験し、彼らとともに状況を見極めようとするのです。

都市の変容に関する物語は、最近の映画で頻繁に取り上げられます。この問題は、あなたにとって一体どれほど重要であるのでしょうか?そして、私たちはこれを正しく認識する事ができるのでしょうか?

これを外で起こっている問題だとして考える事に、私は異議を唱えます。私にしてみれば、移り変わる都市以前に私たちが議論をしていかなければならないのは私たち自身であり、この土地の人々におこった変化なのです。私たちの夢や願望、期待が変わり、その成り行きとして私たちが暮らす土地が変わっていくのです。そのため、私にしてみれば、この問題は数字上ではなく、人生の物語から考察をする事に意味があるのです。

■「煉獄にとどまっているようだ」

撮影が行われたフィキルテペにおいて、あなたは一体どのような事を目撃をしたのでしょう、あなたに最も影響を与えた状況は一体なんでしたか?

その地区の陰鬱な雰囲気にも関わらず、地区の人々の熱気と、彼らが私たちの事をフィキルテペの住人のように迎え入れてくれたこと、工事現場でも同様に歓待してくれたことが、撮影時の困難な諸条件を和らげてくれました。その一方で、地区の状況がはっきりとしていなかったのと同様に、工事現場においてもまた不明瞭な問題が存在します。まるでフィキルテペは煉獄にとどまっているかのようなのです。撮影から約一年後に、音声を録音するために訪問したところ、フィキルテペは当時のままで、何一つ変わっていないように感じました。私は広い地区の中で、わずかなハンマーや釘の音すら録音できずに帰路につきました。

映画の進み方や撮影の独創性は、出演者との仕事にどのように影響しましたか?例えばどのような困難があったのか、もしくはどういったポイントでそれがアドバンテージになったのでしょうか?

映画の全シーンが、かなりアクションが多いワンカットのものからなっています。これもまた優れた、よく調整された仕事をもたらします。あらゆるシーンを最高の形で撮影するために、カメラと演者が完璧なパフォーマンスを行わなければなりません。これを認識していたため、製作の前半では映画に出てくるほぼ全員について、長期に及ぶ役者のオーディションを行いました。撮影は5週間ほどの長期に及びました。全員が注意深くそして献身的に全てのシーンにアプローチをしたのです。これらすべての努力が、この映画にオリジナリティをもたらしてくれました。最初から最後までまったく飽きさせません。幾つかのシーンでは、観客は息を飲んで鑑賞するでしょう。

国外からはどのようなリアクションがありましたか?

反響の数々が、地理に関係なく似通っているという事は、正直に言って私を非常に驚かせました。時に、トルコが抱えている数々の問題に苦しみ喘ぐ中で、私たちは孤独を感じてしまいかねません。しかしながら、カナダ、アメリカ、フランスそしてイギリスにおけるあらゆる上映会で、観客はこの映画と共通する問題を経験していると言うのです。私が思うに、この時代の精神はあらゆる場所において私たちを共通の「闘争」へと仕向けるのです。全世界が対立しています。全世界で居場所を失った人々に対しての抵抗や、不寛容さが増しています。映画を通じて、この問題の数々を国境を越えて議論できるという事は私にとって大変に価値あることです。

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(翻訳者:堀谷加佳留)
(記事ID:46709)