トルコ映画:エムレ・イェクサン監督の新作映画『山男の家』今週から劇場公開
2019年05月12日付 Cumhuriyet 紙


本紙は新作映画『山男の家』が今週から劇場公開される、エムレ・イェクサン監督と自然と人間の間の関係から、ゲズィ騒動にまで至るインタビューを敢行した。
 

デビュー作『湾』(イズミルを舞台に、港に停泊予定だったタンカーの炎上事故によってそれまでの生活が一変してしまったある男の物語を描いた作品。2017年公開)によってトルコ映画界におけるその地位を確固たるものにするだろうと囁かれているエムレ・イェクサン監督は今、二作目となる映画『山男の家』と共に帰還した。クタイ・サンドゥクチュとエムレ・ジェザイルリオールが共演したこの映画は、ある森の中で孤立して暮らす男ヴェイセルと彼が家に暮らすようにと説得をするハサンの物語である。

■『湾』からわずか一年という間もない時間で、『山男の家』が完成しました。二作の映画の間にはテーマ的な相関関係も存在しますね。この二作は同時並行的に、あなたの頭の中で形作られたのでしょうか?この創作のプロセスを説明してもらえますでしょうか?

-アイディアとして最初に生まれたのはとても最近のことです。『湾』の物語を書き上げてから約6か月後、2013年の5月に『山男の家』の最初の草稿を書き上げました。これを書きあげた時間の前段階も勿論あります。アイディアが、物語の数々が頭の中で具体化していくプロセスです。この意味で二作は兄弟のようであり、相関関係で、まさに兄弟のような類似性もあります。『湾』の制作プロセスが私たちが願っていたよりも、ずっと急ピッチで始まると『山男の家』の台本執筆はその間に逃げ込むんで、頭を休ませる場になりました。一つ以上のアイディアを同時に育くむのは、その意味でも好きなんです。
我々が『湾』のポスト・プロダクションに取り掛かると『山男の家』をヴェネツィア国際映画祭のビエンナーレ・カレッジ・シネマ(2012年からスタートしたヴェネチア国際映画祭の新人監督育成プログラム。各種審査を通過すると製作費が助成される)へと送りました。二作目となる映画をこれほど早く完成することができたのは、その助成金のお陰です。


■『山男の家』はまるで、人間と自然の間の関係を掘り下げていく営みとして鑑賞できるようです・・・あなたはこの関係をどのように解釈しているのでしょうか、あなたのご意見、そして強調したかったこととはなんでしょうか?

-自然の巨大さ、その混沌は人間を驚かせるのと同時に恐怖を与える側面があります。あなたも対峙すると自分がちっぽけで、殆ど存在しないものであるようにさえ感じるでしょう。
もう一つの側面として人間の歴史の中に、自然を支配しようとする試みの歴史があるという事です。この恐怖と驚異の感情は、それを克服したいという欲望へ、さらには深くに根付いた破壊の衝動へと取って変わりえます。
この意味において自然はその全体が、人間にとってみれば最大の「他者」であるといえます。私たちの欲望と恐怖の感情の暗部なのです。しかし同時に確実に私たちがその一部であり、私たちも存在しながら私たちも含む何かなのです。
人間と自然の関係もこのパラドックスの上で成り立っていると私は考えています。その一部であるという事を受け入れようとすると実際にその「他者」と衝突してしまいます。もしくは、その逆の順序の事が起こるのです。

■今回二人のメイン・キャラクターが映画に登場しますが、脇役たちは完全にないもののように扱われていますね。恐らく、それほど必要性を感じなかったのではないでしょうか。ごく手短にキャラクター達の問題を説明することはどのような方法があなたに魅力的に映ったのでしょうか?

-映画の出発点の一つも実際のところ完全にこれなんです。私は社会構造や人間関係が人の心理に非常に影響を及ぼすと思ってます。『湾』でも実際にそのアイディアを拡大させて、暮らす場所や、属する集団がどのように人に影響を与えるのかという考えに基づいて製作に取り掛かりました。
『山男の家』はというと、もっと不調和な関係、社会から切り離された世界とそこで生きる二人の人間の間の不均衡な関係性をデザインするというアイディアは私をとても興奮させました。
しかしながら、どれほどこの映画が二人のキャラクターに焦点を当てていたとしても、その後ろの社会に生きる人たちに関しての疑問符がいつまでも残るはずです。彼の家族は一体どうしているんだろう?母親は?ヴェイセルのそれまでの人生は?森林地帯への襲撃は何を意味するのか?、といった疑問は物語の社会的な側面の決して語られることのない空白として残したままにしておきたかったのです。
私が思うには、これがこの映画の最も魅力的な側面です。何かの存在を、ドラマ展開の意味でその空白から私たちが感じとることができる構造があるという事です。


■また一方で、映画において二つの構造が存在しています。二人兄弟が登場しますが、一人は前半部で前面に登場して、もう一人はというと後半部全編で完全に孤独な存在ですね・・・観客にとっては、このように焦点を変えて見せることは少し異なる結果を生んでしまうことがあり得ます・・・作品を画一化してしまわないための政治的な姿勢というのも感じ取れます。あなたがどのように考えたうえでのことでしょうか?


-私を『山男の家』における構造的な意味で興奮させる他の点もこれでした。全くあなたがおっしゃるように、画一化を避けて、ある一つのポイントから物語のテーマを観客が探り出すように工夫し、さらにある程度に彼らが疎外感を感じるような側面も存在していると思います。『湾』でも主役がセリムであったとしても、いつも彼の周囲にいるその他の人間にも物語があるのだ、ということは暗に分かるようにと努めていました。カメラは幾つかの場面で予想外の人物たちを追いかけては、ありきたりな映画システムを打ち破っていました。『山男の家』でもこれとよく似たやり方をもっと構造的な次元で適用したのです。
この考えの根幹にあなたも仰るような政治的な姿勢があるんです。古典的なドラマのナラティブでは登場人物たちが彼らに固有の純然な経験をしてきているのだ、という結論へと靡きます。キャラクターたちは映画世界のなかで、どこかに位置付けられてしまいます。この考えには、私は完全には落ち着けないんです。私たちは単一で固有な存在なのではなく、異なり交錯し合うある全体の中の一部分であるという事を常に思い返す必要があるという風に私は考えます。
政治的な意味でも、より良い世界を作り上げるためには、このアイディアに基づいて行動することによって可能だろう、と私は信じています。


■「失踪」の物語は近年、文学や映画でより出会う機会が多くなったテーマとなりました。この理由はあなたの考えでは何でしょうか?

-これは私が思うには、ある時代の魂の問題です。これについては沢山の理由が考えられます。いつも何かを消費してしまう、その代わりに新しいものを打ち立てることができない時代に生きています。ある朝、私たちがいつも通り目覚めるとそこにあると思っている何かがもはやなくなってしまっているという事実に直面します。
これもまた失うことに関して頭を巡らすこと、その意味の理解への努力へと変わります。このことの理由の一つに幾つかの事がもはや昔と比べると非常に速度を速めているという事があり得ます。
ある建物の解体、森林を伐採して放置してしまうという事態が瞬きをする間に現実に起こります。
一週間前に通り過ぎた通りが今日は全然違う姿になっているかもしれません。このような事態も、常にある種の「喪失」の感情へと道を開くのです。

■『山男の家』において、とりわけラストに差し掛かるシーンで観れる暴力的なシーンを見ると私の脳裏にはすぐにゲズィ騒動が思い浮かびます。これは、一体どれほど意識的に行われたことなのでしょうか、あなたの考えを教えて下さい。

-物語の最初のヴァージョンはゲズィ騒動の直前に書いたように思いますが、勿論のこと細部はその後のプロセスではっきりと形を持ち始めました。
ゲズィ騒動が私の人生とまたクリエイティビティに影響があったということは否定できません。
しかしながら『山男の家』で特に私にインスピレーションを与えたのは、原子力発電所や分解炉、廃棄物に対してのジェラッテペ、アラクル川、クゼイ・オルマンラルまたドイツのハンバッハ鉱山、ダコタのスタンディング・ロックそしてこれと似たような状況にある地域で行われている抗議活動です。例えばまた映画の撮影はイーネアダのロンゴズ森林への原子力発電所建設計画が立ち上がって、危機感を抱いていた時です。
この自然保護運動と都市開発反対運動などと、住んでいる場所、自分の家を守るための抵抗というのはとても似通っていると感じます。つまりは私の目論見はゲズィ騒動を示唆するメッセージがあるのと同時に、大自然と私たちが暮らす場所を守る共通の営みを示唆しているんです。


■あなたの映画は二作ともヴェネツィア国際映画祭で上映されましたね。これは重要な成功であるということは疑いありませんね。

-ヴェネツィア国際映画祭は世界で最も重要な映画祭のうちの一つです。私たちが製作した映画がそこで上映されること、さらには彼らの資金援助を得られたということは勿論、映画の集客数に信じられない程大きく影響します。得られた反応の点でも、この映画祭に参加することができて本当によかったと思います。人はこのように受け入れられるという状況に鈍感なわけがありません、これは本当に嬉しいことです。
しかしまた一方で私は数々の映画祭と、また概して今の時代に支配的な映画産業との関係にかなり幻滅してしまっています。
80年代以降に組織化された映画資本の数々、沢山のアトリエと様々な映画祭が有機的な形で結びついている構造というのは映画製作における勇敢さや斬新さを消耗させてしまう側面もあるからです。同じようなオピニオンが形成されて、その中での妥協的なアプローチが価値を持ってしまうというのは冒涜的なことです。
私は意見の相違、個人の感覚が表出する世論というのがより価値をもっていると考えています。この意味で、私には批判的で懐疑的な問題意識もあるといえるでしょう。



■諸外国の映画祭ではあなたの映画にはどのようなリアクションがあるのでしょうか?またトルコ国内の観客の反応をうけてのあなたのご感想もお伺いしたく思います。

-『湾』も『山男の家』でも外国では、かなりリアクションが違いました。とても気に入ってくれた観客たち、従来のトルコ映画の常識を超えた、私たちがすっかり慣れてしまった物語の形式を打ち壊す要素がある、と考えた人たちの数と同じ位、私たちが作り上げようとした映画との関連を見出せ中なかった人たち、作品を批判する人たちもいました。これらの考えやリアクションが実に様々であるのは、私たちにとって嬉しいことです。上映の後の観客とおこなったディスカッションも素晴らしくて、驚くような見方も数々ありました。
しかしながら、避けてはならないのは物語をトルコとその政治と関係づけて考える事です。
私が思うに、ここで観客は二つに分かれます。一つの映画が製作された国、つまりはトルコについて知っている事に基づいて評価する人々、そして個人的な体験に基づいて、恐らくはもっと普遍性のある見方と言えるような見方から評価をする人たちです。
二作品とも若い観客からはより活発なリアクションがありました。トルコの観客は、彼らが望む望まないに関わらず国内に(映画界への)圧力と検閲があるので、パスワードをかけられてしまった物語を探求することへより積極的です。
しかしながら上映後に私たちが行ったQ&Aセッションはまるで議会のような雰囲気で、解釈をする全ての観客は違った可能性を含む解釈を提示していました。
観客たちが映画でこのような議論を行うことは私にとって最も嬉しいことなんです。

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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:46818 )