トルコ映画:新作映画『イヌが教えてくれること』はあなたの思いやりを求める
2019年04月28日付 その他紙


トルコでは、何万頭もの野良犬が町の中心地から遠く離れた場所で、毎日生存がかかった暮らしを余儀なくされている。野良犬たちを題材にしたドキュメンタリー映画『イヌが教えてくれること』の、静かにカメラを寄せたかと思うと、今度は距離を置きながら撮影された全シーンの中から、観客は自分が最も心動かされる場面は一体どれだっただろうと、鑑賞後に思いを巡らすことだろう・・・。

映画『イヌが教えてくれること』は、あなたが1910年に8万頭以上の犬が虐殺されたハユルスズ島事件のことを、もしたとえ知らなかったとしても、総括すれば、ソファでリラックスしながら鑑賞することが出来るドキュメンタリー映画である。
今現在のトルコの「ハユルスズ島事件」が明るみにされるが、この映画が投げかけることは、ただそれだけではないということも断言できる。
各地の県を訪れながら、トルコで犬たちが戯れ、立ち寄った場所ごとに、そこに暮らす人々を見つめなおす旅が始まる。
撮影は昼夜を問わず行われ、その期間も撮影が開始された夏から翌年の冬にまで及んだ。

映画は路上に生きることを余儀なくされる子犬たちに心を痛めて、里親となって愛情を注ぐボランティアの人々と手を取り合いながら進行していく。路上で暮らす犬たちは、まるで他の一つの物語の中に生きているかのようだが、毎年、毎月、毎日人間が喜ぶ顔を見たいがために、あちらこちらの囲いの中へと入っていく犬たちの彩り豊かな毛並みもカメラは追いかける。

■「犬たちの犠牲の上に成り立っていること」

「彼ら」に決して声をあげさせずに、何の躊躇もなく一か所へと集めて、怒鳴り散らしたり、扉の向こう側で新しい法案作成に頭をひねる人々へもう一度、マイクを突き付ける。僅か一秒にも満たない銃声がもたらす、いかなる法律や保証にも頼ることができない犬たちの犠牲の上に成り立っている現実に、あなたは自分の顔を鏡へと向けずとも、直面する。

様々な機械がたてる騒音の中や、自然の静けさが支配する場面でも、その場で寝ころんでいたり自由に駆け回っている姿に焦点を当てた場面であっても、犬が「あるがままに生きる」姿ほど、こちらに訴えかけてくるものはない。
自然のシンプルさを目にすることはある種の俯瞰であり、それは私たちが慣れることができなかった俯瞰だ。

映画はラストシーンまで音楽が流れることがない。
自然、犬たちそして「人間」がどれほどお喋りな存在であるのか理解するための大きなステップだ。

■「トルコで犬たちの声に耳を傾けること」

ドキュメンタリーの中で静けさと暗闇が支配する場面で、トルコで生きる犬たちの「声」に耳を傾けるため、ある場面では集中して聞き取ろうしているのに、もう次の場面ではその努力が不可能になっている瞬間を感じるはずだ。これこそ、あなたが自分の本当の姿を目の当たりにする絶好の機会なのだ。


■「スクリーンの裏側に広がる世界」

私たち、そしてショーウィンドウの中で観客はソファに座りながら、目の前には一つのスクリーン、スクリーンと私たちの間には想像もつかないような距離が存在し、座っている。スクリーンの後ろには別の世界が広がっている。私たち一人一人は、これら全ての距離の間で立ちすくしてしまい、犬たちの純真な瞳を見て思案を巡らせるが、それも結局のところ自分の気持ちを確かめようとする行為なのだ。そして野良犬たちは、こちらを見つめ返してくるだけ。
そして恐らく、そこには私たちが巡らす様々な思いの中には存在しない意味があるのだろう。

映画は、雪道の中に足跡が続く場面、そこに温度が想像できない場面で終わり観客は取り残される。
繊細に、静かに触れてはまたぐっと距離をあける全シーンから、あなたが温もりを感じ取ることの出来るシーンを、映画は自分の力で選びとるようにと突き放す。

ここで私は自分の正直で純粋な気持ちと向きあうという経験を味わった。

■「ハユルスズ島事件から現在までの気の遠くなる歳月」

いつの日か子犬たちの声というのが、人の心の叫び声と殆ど変わりがないものなのだという事に私たちは気付くはずだ。
それまでの道のりは長く、ハユルスズ島から今日にまで気の遠くなるような歳月が流れた。
映画『イヌが教えてくれること』は、この歴史の中のターニングポイントで時折その歩みを止め、観客は問題意識を新たにするだろう。

この映画は、あなたの思いやりを求める作品だ。

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(翻訳者:堀谷加佳留)
(記事ID:46829)