読まれなかった小説:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督最新作を語るー私たちの孤独は「トルコ人であるということ」とは関係がない
2019年11月23日付 Cumhuriyet 紙


ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督が名誉ゲストとして参加した「トルコ映画週間」は、昨夜ジェイラン氏の映画『読まれなかった小説』上映と共にスタートした。

監督であり脚本家のヌリ・ビルゲ・ジェイラン氏は、どれ程に努力をしたとしても、この国トルコに対しての偏見を取り除くことはできなかったと語り「私たちはなぜ孤独なのでしょう?」と問いかける一人の学生に対して、「この問いを自分の魂の中に探してみなさい。つまりは、外部にあるものに見出そうとすることには何の利益もないのです。国、文化、欧州連合、これはそういうことなのです・・・つまりはもしも文化的な何物かが存在するのであれば、それを運命として、あなたは受け入れることでしょう。」と返答した。

文化観光省映画局の協賛とともにローマでユヌス・エムレ・インスティテュート(YEE)によって開催され、世界的に著名な映画監督であるヌリ・ビルゲ・ジェイラン氏が名誉ゲストとして参加したトルコ映画週刊は、昨日の夜にジェイランの『読まれなかった小説』と共にスタートした。
町の誉れ高い映画間であるカーサ・デル・シネマで開催されたイベントの開会スピーチは、ローマYEE局長のセヴィム・アクタシュ氏、YEE会長シェレフ・アテシュ氏とトルコの在ローマ大使であるムラト・サリム・エセンリ氏が行った。

上映ののちに新聞記者のリカルド・チェンチ氏がステージに上がって、映画についてスピーチを行ったジェイラン氏は、参加者からの質問に返答した。

■「全ての映画において恐れおののくような実験へ踏み出しています」

『読まれなかった小説』ではドストエフスキーとチェーホフの痕跡が存在していることを引き合いに出したジェイラン氏は、ロシア文学のとりわけこの二人の作家が非常に重要であったと表現した。「チェーホフからインスピレーションを受けて何千もの映画作品を作ることができるでしょう。ドストエフスキーもそうです、しかしながらそれを原作とするのはより困難なことです。」と語るジェイラン氏は、その他のシナリオでも仕事をする際に「読まれなかった小説」が偶然に動き始めたと語った。

ジェイラン氏は、「全ての新しい映画作品において、私に挑戦を挑んできて、恐れさせて、怯えさせる何かが存在することは、私にとって喜ばしいことです。モチベーションのために、この類のことが存在する必要があります。全ての作品で自分に合っていて、私にとって重要になり得る、恐れおののくような様々な実験へと踏み出したということがいえます。
例えば、この映画では、実際のところ映画にとっては全く適当ではない、哲学的そして文学的な会話のシーンがあります。これは普通、映画ではあまり好まれないことですし、私も実はあまり好きではないのですが、しかしながら果たして、私はこのようなことに取り組めるのだろうか、と問いかけてみて挑戦をしたのです。」と語った。

■「人生でずっと自分が孤独であると感じてきた、しかしそれはトルコ人であることとは関係がない」

暫くイタリアで暮らしているトルコ人の学生は、国外におけるトルコに対しての様々な偏見は、ありとあらゆる努力をしたにも関わらず追いやることができなかったということ、ジェイラン氏も『スリー・モンキーズ』という映画作品によって、カンヌ国際映画祭において「最優秀映画監督」賞を受賞した際に「私たちの孤独で美しい国へ・・・」と発言したことを引き合いに出しながら、監督に対して「私たちはなぜ孤独なのでしょうか?」と質問した。

ジェイラン氏は、これに対して以下のように返答をした。「孤独とはそういうものだと思うのですが、私は人生の間ずっと自分を孤独に感じてきました。つまりはトルコ人であることと、そこで暮らしているということに関係していることではないのです。私の魂がそのようなのです。いつも自分が異邦人であるように感じています。理知的な全ての人々が、そのように感じることが必要であると感じます。
私はこれは「トルコ人であるということ(トルコ人性:Türklük)」に関係していることであるとは考えていません。少なくとも私にとってはね。一部の人たちにとっては勿論、もっと大きな問題ですが。この問題は自分の魂のうちに探求するべきです。つまりは、外で起こる出来事に求めようとすることには利益がありません。国家、文化、ヨーロッパ連合、これらもそういうことです・・・私の考えでは、これらはあなた達の中で解決することが必要なことであると考えています。頭を巡らせる必要はありません。重要なのは人間の中にあるメランコリーと抗うことです。それに解決策を見出す必要があります。

■「エリート主義だ」の批判への返答

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン氏は、他のあるトルコ人学生の、「あなたはトルコを舞台に、とても私たちの中に存在する物語の数々を語られていますが、製作されたそれぞれの映画は非常にエリート主義的であり、幅広く人口に膾炙するものではないと考えています。これに関してのあなたの考えを見い出せませんでした。あなたはどうお考えなのでしょうか?
という問いかけに対しては、以下のように語った。「このように考える人もいるでしょう。考えない人々もいるのです。つまりは映画というのは、それぞれのスタイルに関しての、ありとあらゆる見方が、いつも存在しているのです。あなたが慣れ親しんだもの以外のあるスタイルが存在しているのであれば、それはテーマとしてではなく、物語の形式のことを私は言っています。間違いなくある一定の人々には奇妙なものに感じられるでしょうが、これは避けられないことです。
監督たちは普通、賞賛へも、また批判に対してもあまり真に受けないことが必要です。
映画は、今日では非常にポピュラーな芸術なのであり、何千ものリアクションを生み出します。これらの全てに対応しようとしてしまえば、実際のところ映画を作ることなどできません。私が意図しているのは、できる限りの範囲で現実味をもたせようとすることです。
もちろん、私はこのことに成功できたのだろうか、成功できなかったのだろうか、というのは何ヶ月間にもわたって議論の的になります。この「リアリズム」も人それぞれで変わりえることなのです。」

トルコにおいて、エリート主義であると見受けられる映画作品は、観客動員数の面で劣る映画作品としてみなされているのか、という質問に対してジェイラン氏は、「自分の映画作品は、芸術映画の枠ではより良い興行収入を上げている。」と述べて、「通常の(芸術)映画作品は2~3万人程であるが、私たちのものは25~30万程度の動員がありえます。あなたがおっしゃったその意味において、エリート主義というのはある意味で少しばかり映画文化に関するものです。このような種類の映画作品には親しみやすさに関心を引く必要があります。その意味において、ある種の貴族的なつくりが存在しています。よい芸術というのはいつのときも少しばかり貴族的なつくりがあるのです。」と語った。

■「兵役は私にはいい経験だった」

ジェイラン氏は、再びある質問について自分を映画へと押しやったのは、教育を受けたエンジニアになりたくなかったからではなく、とても優柔不断になり不満が存在していたからであると述べて、人生で何をしたいのか分からなかった時に兵役のような義務の、自分自身を思考へと追い込まないような経験は自分にとってよかった、と語った。その時期には非常に沢山の読書をしたと話すジェイラン氏は、この不満と優柔不断さが自分を映画を監督することへと向かうというような大きな決定を取らせたと付け加えた。新しいトルコの映画は非常に優れているとも付け足したジェイラン氏は、最近では『アイディエット』も大好きな作品だと語った。
ローマで、11月22~24日の間で開催予定のフェスティバルの枠組みで合計7作品の様々な賞を受賞した映画が上映される予定だ。

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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:48204 )