トルコ文学:ラティフェ・テキンから‟冒険小説風”の「貧困」に関する連作小説
2018年11月22日付 Hurriyet 紙


ラティフェ・テキンは、同時に刊行をし、ときにはそれぞれが交錯する2作の連作小説『引き摺り(Sürüklenme)』と『マンヴェス・シティ(Manves City)』によって自分自身の伝統に対して、貧困へと回帰をしたようである。しかしながら今回彼女のナラティブには、「冒険の要素」も加わったようなのだ。恐らくには、貧困がこれほどまでに可視化している状態になったことは、テキン氏を、見ることができ、そして提示することのできる言語によって執筆をするように仕向けたのであろう。言葉が、貧困層の人々の新たな形態を得た貧困のように新たに形づくられたのである。

ナーズム・ヒクメトは、『国民軍叙事詩(Kuvayi Milliye Destanı)』を「彼ら(Onlar)」という作品とともに始めている。「大地の蟻とは彼らのこと/水の中の魚/ 空の鳥たちほど/沢山いるのである/ 怖がりで/ 勇敢で/ 無知で/統べるもの/ そして子供なのである/ 抑圧して/ 生み出すのは彼らなのである/ 私達の叙事詩においては彼らの冒険が存在しているのだ」。
ラティフェ・テキンも新作の小説作品の数々において自身の伝統へ、貧困へと回帰をしたようだ。しかしながら今回は、彼女はそのナラティブに「冒険の要素」も加えたようである。ナーズム・ヒクメトの詩の続きは、「彼ら」の状況に割いているのであり、冒険をこのように紹介し、完結している。詩の最初の韻文のようにそのあとのものも正しい。「旗がその手からその場所に落ちた人々」も彼らである。「敵を生み出して、その家々へと逃げ込む人たち」もまた。

腰抜けで、勇敢で、無知であり、統治者でそして子どもたちがいる人々というのは、今回は殆ど完全に丸裸の状態であり、様々な形容詞が削ぎ落とされて見受けられるのである。
恐らくは、貧困がこれほどまでにはっきりと見える状況になったことは、ラティフェ・テキンをもまた、見ることができ、提示することのできる言語によって執筆するようにと方向づけたのである。彼女の言語も、その傍で純粋さを保ったというのは奇妙に思わせることかもしれないが、その内面から生まれた貧者たちを、新たな形を得た貧困のように新たに形づくったのである。
富裕層が世界を貧困化させる一方で、貧困層が文学を豊かなものにしているというのはなんというアイロニーだろう!
言葉が、貧困層の誰か一人のように彼らとともに動いて、悲しみ、そして彼らがその口から発する言葉というのは彼ら自身のものであるだけではとどまらずに、言葉をもたない者たちにも寄り添うのである。

“新しいトルコ”というのは、新しいものであることを、新たなレジームを作り出す動きを提示するだけではとどまらず、富裕層と貧困層にもまた新たな形態を獲得させているのである。

田舎の貧困層は、都市の貧困層と同じ位、保守層の包囲下にある国において、政府をまるで一つの会社であるかのように統治しようとする欲望の犠牲となっている。

国は、ラティフェ・テキンの各小説の名前を引用すれば、“マンヴェス・シティ”に向かって“引きずられている”状態にある。各小説においてもこのことについての物語に彩られた道のりが時折、交錯しているのだ。

「囲い込み」は、力を持つ者たちがそこに帰属しているということを主張する、そして人々の大部分を説得してしまうメンタリティの世界を、政府の手によって更に支配を強化させながら、確実なことはお互いに求めることが出来ない外国と国内の協力者たちが、その土地をそして耕された土地をセメントのアスファルトに、コンクリート製の木々、遺伝子組み換え作物(GMO)のネットワークへと変えてしまうことによって継続しているのだ。

そうして「冒険小説」と私たちは言った。そうであったとしてもこの本の一つの説明としては「32パートで一つで、全部が詰めこまれている」と言うことにしよう。まるで昔のアドヴェンチャー映画について言われていたことのようなのである。愛、喧嘩、殺人、ポルノ、不正、不平等、正義、血、血縁、計略、嘘、裏切り、復讐、全てが揃っているのだ。

二作とも、共和国期の文学の1980年代に至るまで、最も多く作家が存在していて最も読まれた「農村小説」の系譜へ、異なる文脈で影響を及ぼしえる作品である。保守派の包囲が新たに「農村化」させた各都市、そして周囲の窮状というのはとりわけ『マンヴェス・シティ』において提示されている。ラティフェ・テキン氏の「豊饒な貧困者たちのギャラリー」の突出したキャラクターの一人であるネルギス氏が「地方新聞の民衆の声」というコラム記事において頻繁に言及している窮状というのがこれなのである。「綺麗に包装された箱をサクランボの木の下で開く人と、コンクリートに横たわって広げる人が、一つでありえるのでしょうか?」(マンヴェス・シティ)

包囲の概念は二つの小説を読む際に最も脳裏に浮かぶ言葉であった。自由保守主義の、宗教、コマーシャリズムの、実り多き土地を炭鉱業に、消費主義の工場へと売却することの、フォーマット化の、水力発電所(HES)の、火力発電所の、洪水、ビニールハウス産と遺伝子組み換え作物の含まれる製品へと割り当てて分野が狭まる様の、搾取され包囲される生活の、家の、人々の、その関係性の小説である、と私の言葉はそれに続ける。
村と共にそのルーツもまた失った人たちの・・・

ラティフェ・テキンはただ私たちの文学においてだけではなく、世界文学においても、こう言おうか、「あたかも兄弟であるかのような親密さ(‘dünya ahret’ kardeşi)」の文学だ。私がよく知っているこの人々というのは、労働者階級もまた共にあることから、連帯からは程遠くへと追いやられるほどに、どのように一人一人が虫けらのような状態になるのかということを痛みと共に提示している。一方で政府が会社化したように、かつての組織化から生まれたことも、この新しい時代において、新しいトルコにおいて、どのようにそれとは逆に会社化したのかということも物語っているのである。
「組織化すると言われることはもはや会社を設立することなのよ!」『引き摺り』

ラティフェ・テキンは、スタートからずっと「背負わされた」作家の一人であった。その頭に、そして魂に重くのしかかるものについて書いているのだ。この重荷というのは、貧困、自然、女性たちそして若者たちだけではなく、新しい世界の大多数の問題にも留まらないし、稀釈されることなど知らない。そればかりか、進むにつれて増えていき、更に重みを増していく。取り分け階級間、性差間の不平等が、次第にそれぞれの階級内、それぞれの性の中の間でも生まれ始めたことはラティフェ・テキンにおいてペシミズムへとその道を開いている。しかしながら、そうでありながら彼らのことを最も信頼をして、女性と若者の、その道にあって引き摺られる状態にある世界の光を再びつかみ取るということも信じているのだ。詩人は信用ができないが、小説家は信頼できると言うことにしよう。私たちもまたラティフェ・テキンを信じている。

・『引き摺り』
ラティフェ・テキン
ジャン出版社,2018
192頁、20リラ

・『マンヴェス・シティ』
ラティフェ・テキン
ジャン出版社、2018
152頁、18リラ

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( 翻訳者:堀谷加佳留 )
( 記事ID:50135 )