ナゴルノ・カラバフ紛争、勝敗をきめたシュシャから衝撃の映像
2020年11月16日付 Milliyet 紙


紛争の運命を変えたシュシャからロイター通信が配信した写真の衝撃が、今日の発表でいっそう深まったことが速報で報じられた。アルメニアの外務大臣が辞任し、ロシアの指揮下による帰還プロセスが始まった。アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領は、占領から解放されたフュズリとジャブライルの両都市を訪れ、「彼らはすべてを破壊していった」と述べた。また、アリエフ大統領がアゼルバイジャン国旗にキスをし、国旗を掲揚する画像はソーシャルメディアであっという間に拡散された。

■写真1:ナゴルノ・カラバフ紛争終結後の、今日、アルメニアからは新たな辞任と告白のニュースが入り、また、アゼルバイジャンのアリエフ大統領による占領解放地への訪問が話題となっている。

■写真2:44日間続いた戦闘がアルメニア側の敗北に終わったことで、ナゴルノ・カラバフに住んでいたアルメニア人らは家を捨てアルメニアに戻り始めている。

■写真3:国際報道機関が、カルバジャルを離れる支度をするアルメニア人の家々や、学校や公共の建物が燃やされている様子を写した写真を配信した。

■写真4:ロシアの報道機関スプートニクは、カルバジャルから出ていく人々が、アゼルバイジャン人に残しておかないようにと木々を伐採する動画を共有。動画ではカルバジャルの道に木々を積んだトラックが列をなす様子が映っている。

■写真5:AP通信の報道によれば、600人が暮らしていた歴史ある村ではすべての家屋が焼かれたという。1994年以降、アゼルバイジャン人の家に定住した人々は、ロシアの指導者ウラジーミル・プーチン大統領に対する不満をあらわにした。

■写真6:ロシア国防省は、ナゴルノ・カラバフ線沿いに監視ポイントがすべて設置されたと発表した。 同省のイーゴリ・コナシェンコフ報道官は、全25か所の監視ポイントの設置が完了し、兵士が24時間態勢で警戒していると明らかにした。

■写真7:アゼルバイジャンのヒクマト・ハジエフ大統領補佐官は、アルメニアがカルバジャル解放のために10日間の追加猶予を要求しており、この要求をバクー政府が受け入れたと発表した。 ハジエフ大統領補佐官は「この地域の地理的条件は難しく、同地域には道路が一本しかない。人道的立場を重視するアゼルバイジャンは11月25日まで撤退期間を猶予した」と述べた。

■写真8:11月25日に10日間の追加猶予期間が満了すれば、アゼルバイジャン、アルメニア、ロシアの間で署名された合意の大きな第一歩が実現する。アルメニアは、カルバジャルに続いて11月20日にアグダム(アクナ)地域、さらに12月1日にはラチン(ベルジョル)地域を放棄しアゼルバイジャンに返還しなければならない。

■写真9:「私は辞任しない」
アルメニアのニコル・パシニャン首相は今日(17日)、再びビデオ通話による記者会見を実施した。パシニャン首相は敗北の責任をとり、必要であれば法廷に出向くことも明らかにしたパシニャン首相は、一方で辞任要求については意に介していないと宣言した。

■写真10:パシニャン首相は、「紛争中、いくつかの異なる段階で、アルメニアに対して色々な合意が提案されたのか?」との質問に対し、次のように回答した。「いいえ。内容の異なる文書は提案されていない。シュシャを含む紛争前の領土をアゼルバイジャンに与えるという指針が継続されていた。2016年以来、この状況である。アルメニア側はそれらの提案を延期せざるを得なかった。問題となっている領土を手放すことを承認すれば戦闘は予防できたが、戦うことを選んだ」

■写真11:アルメニア首相は、「紛争中、いくつかの異なる段階で、アルメニアに対して色々な合意が提案されたのか?」との質問に対し、次のように回答した。「いいえ。内容の異なる文書は提案されていない。シュシャを含む紛争前の領土をアゼルバイジャンに与えるという指針が継続されていた。2016年以来、この状況である。アルメニア側はそれらの提案を延期せざるを得なかった。問題となっている領土を手放すことを承認すれば戦闘は予防できたが、戦うことを選んだ」

■写真12:ロイター通信社は、ロシアの平和維持軍が到着したシュシャで、道端に積み上げられた数十人のアルメニア人兵士の写真を世界に公開した。

■写真13:シュシャがアゼルバイジャン軍より奪還された後、アルメニアはテーブルにつくことを余儀なくされた。アルメニアはこれまでに兵士2,317人が殺されたと発表したが、この数字は国際監視機関によれば多過ぎる。

■写真14:南コーカサスについて分析するアルチョム・トノヤン博士は、Twitterで共有した一連の投稿で、パシニャン首相は人々に真実を伝えていないと書いた。トノヤン博士は、現在何百人もの兵士が行方不明であり、何人かは捕虜となっている可能性に言及した。分析によれば、まったく逆の発表があるとしても、シュシャ奪還で150人以上の兵士がアゼルバイジャン側によって殺されたとしている。

■写真15:アルメニアのゾフラプ・ムナツァカニャン外務大臣が、今日(17日)辞任した。外務省報道官のFacebookで、2018年5月から職務にあたっていたムナツァカニャン大臣が大臣の任を離れたと発表された。

■写真16:ロシアは、ナゴルノ・カラバフ地域の首都ハンケンディ(アルメニア語ではステパナケルト)に、ロシアの平和維持軍の一組織として省庁間人道支援センターを設立している。同センターは11月20日に活動開始予定。

■写真17:RIAノーボスチ通信は、上記の人道支援センターが戦闘中に避難し、再びナゴルノ・カラバフに戻るアルメニア人の安全を確保すると報じている。これまでに、ロシア軍に伴われたおよそ30台のバスが週末にラチン回廊を通過ってハンケンディ(ステパナケルト)に到着している。

■写真18:アルメニアを混乱させた合意によれば、ナゴルノ・カラバフでの戦闘ラインとラチン回廊には1960名のロシア平和維持軍兵士たちが配置されている。また、アゼルバイジャン領に設けられる予定の平和監視センターではトルコとロシアが活動をともにする。

■写真19:その一方で、アルメニアの諜報機関がパシニャン首相を標的とした暗殺未遂を阻止したことを発表した。公式声明によると、シュニク地方で反政府的見解を持つ人物の自宅に強制捜査がなされた。

■写真20:アルメニア元国家保安局長で祖国党党首であったアルトゥール・ヴァネシアン氏も、パシニャン首相暗殺未遂ならびに国家転覆予備罪で拘留された。

■写真21:アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領が、占領から解放されたフュズリとジャブライルの両都市を訪問した際の様子。

■写真22:アリエフ大統領の妻メフリバン・アリエヴァ夫人がインスタグラムで共有した写真からは、アリエフ大統領本人が運転する車両で現地を訪れた様子がうかがえる。

■写真23:アリエフ大統領は、周辺の廃墟となった家々を示し、「残忍な敵によって破壊された家々はアゼルバイジャン市民のものだった」と語った。

■写真24:アゼルバイジャン大統領は、「30年でどこもここも破壊された……。我々は国際司法裁判所で責任を問い、我々に補償が支払われるだろう……」と述べた。

■写真25:ナゴルノ・カラバフでアゼルバイジャン国旗にキスをするアリエフ大統領の写真はソーシャルメディアでいっきに拡散された。

■写真26:そしてアリエフ大統領が国旗を掲揚した写真には、ソーシャルメディアで多くの反応や「いいね」を受けた。

■写真27:ナゴルノ・カラバフでの衝突は、9月27日の日曜日の朝、アルメニア側の停戦違反により始まった。ナゴルノ・カラバフは国連および国際社会からはアゼルバイジャンの一部として認識されている。しかし、アゼルバイジャン領土の約20%を占めるナゴルノ・カラバフとその周辺地域は、1990年代初頭からアルメニアの占領下となっていた。 同地域で1991年に「アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)」が設立されたが、国際的にはアルメニアを含むどの国も同地域を承認していなかった。

■写真28:南コーカサスの4400平方キロメートルの面積を占めるナゴルノ・カラバフ(上カラバフ)は、アゼルバイジャンとアルメニアの間の最大の問題として長年、解決を待っていた。 「ナゴルノ・カラバフ」という地域名の語源は、いくつかの異なる言語の混合物である。つまりその名前に複数の言語が含まれるということが、同地域に歴史を通して異なる文化がもたらされ、それらに大きく影響されてきたかを示している。

■写真29:英語ではNagorny(またはNagorno)Karabakhである。 「Nagorny」という単語はロシア語で「山岳」(нагорный)を意味する。この単語はアゼルバイジャン語でトルコ語の「dağlık山」にあたる「dağlıq」、あるいは、「yukarı上のほう」を意味する「yuxarı」という言葉で理解される。 一方、「Karabağ」という単語は、トルコ語とペルシャ語に共通する単語であり「黒い庭」を意味する。

■写真30:1991年12月10日に行われた住民投票で、同地域に残っていたアゼルバイジャン系住民はボイコットしたが、アルメニア系住民はアゼルバイジャンからの独立に票を投じた。この住民投票の後にナゴルノ・カラバフ共和国の独立が宣言されたが、このイニシアチブは国際社会からの反応を得ることはなかった。アルメニア軍に支援されたナゴルノ・カラバフのアルメニア系住民と、同地域に暮らすアゼルバイジャン系住民の間の緊張は、独立宣言とともに高まった。そして発生した衝突は、1992年にアルメニア軍とナゴルノ・カラバフ系アルメニア住民およびアゼルバイジャン軍との間の激しい紛争に発展した。

■写真31:ナゴルノ・カラバフのアルメニア系住民は、戦闘終了時に地域全体を支配し、隣接する7つの地域(ラヨン)をも占領しました。そして、ナゴルノ・カラバフ地域とアゼルバイジャンの直接的な連絡ポイントは厳しく制限された。このナゴルノ・カラバフ問題は、何年もの間、アカデミアの世界で「凍結された紛争」と説明されてきた。 断続的な和解交渉にもかかわらず、ナゴルノ・カラバフ-アゼルバイジャンの連絡線とアゼルバイジャン-アルメニア国境の両方で、相互の停戦違反が頻繁に繰り返されてきていた。

■写真32:50万人の難民がアゼルバイジャンとアルメニアに避難し、100万人近くが移住を余儀なくされた。 ナゴルノ・カラバフ紛争が始まる前に存在していたいくつかの町や村は完全に放棄され、破壊された。 現在もアゼルバイジャン領土の14パーセント以上が占領下にある。

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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:50193 )