サドベルク・ハヌム博物館40年
2021年03月08日付 Cumhuriyet 紙

サドベルク・ハヌム博物館の開館初期の頃に戻ろう。ヤプ・クレディ出版から何年か前に出された『ヴェフビ・コチは語る』という名の本でコチ氏は次のように語っている。「結婚はもちろん現在のようではなかった。家に宗教関係者がやってきて、結婚する当人である女性も男性もその場にはいない。一方が宗教関係者を立て、もう一方は別の宗教関係者に立てる。双方の宗教関係者は向かい合って座り交渉を始める。」そしてこの方式でヴェフビ・コチは、(母方のおばの娘に当たる)アクタルザーデ・サドゥッラーの娘サドベルク・ハヌム(女性を指す呼称)と金貨三枚という「後に支払われるマフル」で結婚した。つまり、離婚した場合、3枚の金貨を払うという約束で。時は1926年、場所はアンカラである。

また、同じ書籍でヴェフビ氏は、「妻が生前の頃、私は働いてばかりで彼女に対して十分な時間を割けなかった。恐らく、彼女の望みの一部はかなえられなかった。彼女の唯一の希望は、収集した古いオスマン朝の手工芸品と花押入りの銀製品を自分の名前を冠した博物館で展示することであった。しかし、この望みは死後に実現することができた。」「彼女は私の成功に大きな影響を与えた。」という妻サドベルク夫人は1973年11月に亡くなった。サドベルク夫人の望みを遺言として受けとめたヴェフビ・コチは、1980年に[イスタンブルの]サルイェル・ビュユクデレでアザルヤン・ヤルス(別荘)と名付けられた海岸線の道路に面した夏の館で彼女の個人的なコレクションを展示するために、トルコで初めての民間の博物館を開いた。アザルヤン・ヤルスは、19世紀の建物である。1950年にコチ家が夏の別荘として購入し、1978年まで使用していた。1980年にセダト・ハック・エルデム氏の修復により博物館に変わり、訪問者に開放された。

サドベルク・ハヌム博物館の創設時、サドベルク・コチの個人的なコレクションには3千点を超える伝統的衣服、工芸品、花押入りの銀製品、磁器があった。しかし、当時から現在まで購買や譲渡によりコレクションは2万点に上った。

サドベルク・ハヌム博物館への最大の貢献は、間違いなく、ブルサ出身の実業家ヒュセイン・コチャバシュが1981年に亡くなった後に文化省の許可を得て彼の相続人たちから購入した、紀元前6千年からビザンツ帝国末期までアナトリアで生起した諸文明が育んだ土製や金属製の偶像、ガラス製品、飾り玉、硬貨、墓のレリーフ、 ランプ、タイル、陶磁器といった比類ない文化遺産である。このように博物館は、もはや紀元前から20世紀初頭までのコレクションを所有している。この考古学的作品を展示するためにアザルヤン・ヤルスの隣の建物を購入し、修繕を行い、1988年に博物館に追加された。この建物はセブギ・ギョニュル館と名付けられた。さらにヴェフビ・コチは説明している。「亡くなった妻の古物趣味はおそらく[娘の]セブギに受け継がれた。セブギは、子供の頃に母とよく巡り歩いた。昔の作品を収集するために行われたこの旅に影響を受けたに違いない。母を失った日からセブギは、母の家に関心を払い、母が生きていた時に望んだ博物館の建設と運営のために全力を尽した。」セブギ・ギョニュルは、亡くなった2003年までに博物館の運営委員長であった。セブギ・ハヌムの死後、オメル・コチが委員長を受け継いだ。

そもそもモチーフ展の考案者は工科大学のトゥルグト・サネル教授である。修士や博士課程の学生達と、モチーフを調べ、展覧会を行うよう提案した。展覧会は、多くの地域や様々な時代で同じモチーフがいかに繰り返し作られたかを説明する点で興味深い。

展覧会をこの博物館で32年にわたり館長を務めるヒュルヤ・ビルギさんと巡った。「常に展覧会を博物館の収蔵品の中から一定のテーマで選び行ってきましたが、40年目にあたって、諸々のモチーフの歴史的変遷を示そうと思いました。1万9千点の収蔵品をひとつひとつ吟味して466点を選びました。」トルコ・イスラム時代の作品上、また考古学部門の作品上にあるモチーフを読み解いてモチーフ展を準備し、5つの部門に分けたと語った。生と生命力、自然、偶像、秩序と順応、場所...。

「生と生命力」を手元に止めて置くということは、単に現世のみならず、不死、死後の生もその中に含んでいる。根本的問題は現世に可能な限り止まること。生と生命力は、月、星、太陽のモチーフ、これらの光であり、イスラム世界での新月、国の紋章、貨幣、花押であって、これ以上に、このことをよく示すものはあろうか。金属・陶器作品、石細工、皮の製本、書類用の鞄、ベルトのバックル上のソロモンの印章、チャルクフェレキ(çark-ı felek; 風車状のモチーフ)、三つの月かさをもつチンテマニ、ヒョウ、豊穣の角、生命の木、糸杉、オスマン朝の紋章は、力を象徴するモチーフである。この部門では鉄器時代にあたる、楽器を記したベルトのバックルが展示物の中で最も古いものである。

自然部門でのモチーフは、植物、果実、葉、チューリップ、バラ、カーネーション、ヒヤシンス、花かごである。オスマン宮廷文化の中で食後の果物、果物を交えた歓談、スルタン・アフメト三世が1705年にトプカプ宮殿内に作らせた「果実の間」を想起する。中国風の雲、岩、波も磁器や織物に頻繁に描かれるモチーフである。

人、動物、伝説上の生き物の像は、アナトリアのみならず、中国、インド、イラン、アラブ文化の中にあるモチーフである。戦争場面、あるいは猟の場面はいかなる時代にも制作された。像を通じた表現は時に禁じられたが、ライオン、鳥、ヤギは芸術作品上の位置を常に守った。

秩序、順応、場所の部門では、幾何学的デザイン、ハス、シュロの葉といった数々のモチーフは軍の隊形のなかで提示され、またモスク、メドレセ、隊商宿、天幕、さらには船といった場所の幾何学的モチーフは秩序と順応の中でねじり丸められて、美的な装飾に変じている。この部門全体であたかもモチーフの歴史を目にし、[モチーフを通じて]様々な国を巡ることができる。様々な場所、東西の、様々なモチーフを様々な作品を通して目にし、モチーフがいかに連綿としているかを確認することになる。一部のモチーフの意味は常に同じであるが、一部は場所により異なる。パズルを解くかのようにひとつひとつ軌跡を辿ることになる。

博物館で作成されたカタログの美しさと魅力には触れずにはいられない。ビルギ館長はこの様式化されたモチーフ群のことをベクターイラストと呼んでいる。恐らくグラフィック・デザイナーにとっては馴染みのない用語ではない。モチーフは素晴らしい色の構成で様式化され印刷用に準備された。カタログの中には466のモチーフがあるが、135のみが展示できた。目にすることが出来ないモチーフはあらゆるショーケースの前に設えられたデジタル画面に軽く触れることで目にすることが出来る。

■博物館は引っ越し準備中

サドベルク・ハヌム博物館は、金角湾の旧造船所があった地区に引っ越す準備をしている。現代芸術センターであるArterをデザインしたイギリスのグリムショー・アーキテクツのメンバーが建物を、ドイツのブリュックナー社が展示部門を制作するという。計画はいまだ設計段階にある。2024年完成を願っている。ビルギ館長は、現在の博物館の建物が19世紀に建設された第一級の歴史的建造物であり、保護が必要なこと、場所が大変狭くて展示・保管・保護の条件が困難を来しており、駐車場さえないと口にする。すべてこうした理由で来館者数は望むような数に達していない。私は展示を見るため街中からサルイェリまで車で丸一時間を要した。アザルヤン・ヤルスのコレクションと共に疑いなく[博物館として]相応しい状態であるが、多くの来館者を得ることが出来ていない。この素晴らしい場所から引っ越さざるを得ないように窺える。

注:モチーフ展は2020年11月9日から2021年10月31日まで開催中。
住所:Piyasa Cad. no.25/29 Büyükdere 34453 Sarıyer İstanbul
水曜日と日曜日を除き10:00-17:00開館。(宗教的祭日の一日目は閉館)
・カタログの一部は博物館のウェブサイトで目にすることが出来る。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:50759 )