イスタンブルのシンボル。アタチュルク文化センター82年の歴史
2021年10月28日付 Hurriyet 紙
新装なった新アタチュルク文化センター
新装なった新アタチュルク文化センター

イスタンブルは、明日新たに開館するアタチュルク文化センター(AKM)のオープンを心を高鳴らせ待ちわびている。世界の最も総合的芸術センターの一つになるであろうAKMは、1939年の構想から始まり、役人の怠慢、火事など様々な記憶に満ちている。またAKMには最初の「庇護者」リュトゥフィ・クルダル博士と関係の深い長い物語がある。

かつてのイスタンブル[知事兼]首長であるリュトゥフィ・クルダル市長は、建設・インフラ整備同様にイスタンブルの芸術・文化活動でも抜きん出ていた。イスタンブルが近代的な劇場やオペラハウスを欠いていることにも気付いていた。

ある晩、ムフスィン・エルトゥールルの「過ちのコメディ」という演目を見に行った。時は1939年2月4日…。公演後に役者達を称えるために舞台に登った。エルトゥールル氏の言によると、くねくねと巡って舞台に上がることができた。また当人の弁によると、その劇場はモグラの穴蔵のようであった。

エルトゥールル氏は市長が彼らに哀れむような眼差しを向けたのに気付いていた。市長はその当日に決定を下した。イスタンブルの人びとが季節に関係なく訪れることができる劇場とオベラハウスを建設すると。この考えを披露した際にエルトゥールル氏も含め誰も真剣に受け取らなかった。過去にこうした約束を何度も耳にしたからである。

クルダル氏は彼の計画にようやく1946年に着手できた。イスタンブルの征服から493年目にオベラハウスの定礎を行った。タクスィム広場を臨む、最も広範な側に建つ建物は、ロンドン、パリ、モスクワのものと引けを取らない建物と成るはずだった。

クルダル氏の計画では、イスタンブル征服の500周年に当る1953年5月29日に開業するはずだった。当人は頻繁に建設現場を訪れて、夜ごと自ら進捗具合を確かめていた。だが政治の歯車は急展開を続けていた。党と意見が一致せずクルダル氏は1949年に辞任した。建設中のオペラハウスの建物の運命もこの辞任で暗転した。

新[知事兼]首長のファフレッティン・ケリム・ギョカイは節税を理由に事業を公共事業省に委ねた。建物はもはや役人達の杯を握る手に委ねられた。そこから開業まで8名の首相、14名の担当大臣が変わった。定礎から23年後、1969年4月12日、建設は終了した。

リュトゥフィ・クルダル氏の生涯を語る『伝説の知事』という著書を著したオルジャイ・ソウクさんによると、クルダル氏が当初550万リラで完成させようと目論んだ建物は、7500万リラを要した。当初「イスタンブル文化館」の名称だった。しかし1972年11月27日に生じた火事で建物は焼け落ちた。1978年10月6日、「アタチュルク文化センター」の名称で再開した。その日以降、芸術活動を続ける一方でタクスィムで落ち合う際に最も便利な場所のひとつとなった。

1972年11月27日に生じた火事で全焼した。火事当時はオスマン朝の君主ムラト四世が演目として行われていたので、トプカプ宮殿から持ち込まれていた外衣、鎧、一部の貴重な品々も消失した。

■明日開業

2019年2月10日に起工された新AKMは、共和国の98周年記念日に合わせ明日29日に開業する。新しいAKMは、最初の建築家であるハヤティ・タバンルオウルの息子、ムラト・タバンルオウル氏が手がけている。

「私が子どもの頃でした。定礎の際の父のスピーチを思い出します。街のことを念頭に置いた最も大きな作品の内の一つでした。父が今この開業を見られたとしたら誇りに思うでしょう。私は招待されませんでしたが、オープン後に必ずAKMを訪れて見て回ります。」

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( 翻訳者:小鉄礼子 )
( 記事ID:51765 )