トルコ最後の公開処刑
2021年12月22日付 Milliyet 紙

最後の公開処刑:Börekçi Ali

ある時期処刑は人々の前で行われていたものだった。1960年代まではそうであった。そしてこれを終わらせた事件をズームアップした。最後の公開処刑の主人公であるボレキ屋アリーに注目しよう。さあボレキ屋アリーの最後の公開処刑とは…

全てはその日に始まった
ベシクタシュの有名なスィナンパシャ地区の住民は、1955年9月27日の朝、気になる臭いで目を覚ました。ボレキ屋アリーの店から焦げた肉のにおいが漂ってきたのだ。警察が呼ばれ捜査が行われた。しかし何も見つからず、オーブンは密閉されており、捜査は終了した。そして皆もそのように考えた。

漂着した死体
夕方になると新たな進展があった。ベシクタシュの浜辺で、中に焼死体が入った麻袋が見つかった。漂着したこの麻袋に入っていた死体の一部が、周辺のものたちによって確認される。イスタンブルは突然恐怖に陥った。

証拠は明白
バラバラ遺体を一つにまとめると、疑惑はボレキ屋アリー集中する。警察はボレキ屋アリーを捕まえるべく動き出したが、全く見つからなかった。ボレキ屋アリーは宙に消えてしまったようである。4日間ボレキ屋アリーの徹底捜索がおこなわれた。結局捕まって罪を白状した。だが裁判所に連れて行かれるまでのこと。彼は裁判所で「狂った」振りをした。

恐ろしい詳細
さて、ボレキ屋アリーはこれらの殺人をどうして犯したのか。店にたまった麻袋を売るといって、タフタカレから2人の麻袋商を呼ぶ。たくさんの金を持ってくるように言った。なぜなら店には本当にたくさんの麻袋があるからだ、と。麻袋を彼らに売るのだ、と。男たちは麻袋を見るために地下室へと降りる。60歳のアフメト・セイト・ターヒルオールと25歳のタフスィス・ヤイラの頭を、シャベルで殴って殺した。
すぐに死んだ男たちのポケットの中をさぐる。たくさんのお金を持ってくるつもりだったのだろう、上の店まで引きずりあげると、470リラが男たちから出てきたのだ。(当時新聞一部あたりの平均価格は15クルシュであった。)そうして金を奪い、男たちをオーブンに投げ込んで焼き始める。

後悔したそうだ(!)
供述はなかなか興味深いものだった。若いタフスィス・ヤイラを殴っても死んでいなかったかもしれないと言ったボレキ屋アリーは、「たかだか470リラの金しかあいつらは持っていなかった、知ってればこれっぽっちの金のために犯行に及ばなかった」と言い、皆に衝撃を与えた。

精神異常者のふり
ボレキ屋アリーは裁判で助かるための方法を見つけようとし、精神異常のふりをしようとした。裁判所の決定で病院に移送されたが医師たちは精神的に健康であると報告した。彼の弁護人は「依頼人に精神健康上の問題がなかったとしても健康上の問題はあって、2人を海に投げ込む力はない。」と述べ、名前の綴りが間違っていたこと理由に異議を唱えて、裁判はますます長くなる。

不利な証人
しかし証人の証言はボレキ屋アリーに不利だった。ヴェダト・ソクルル警部とタハタカレの同業者たちは、彼に対し不利な証言を行い、証拠もボレキ屋アリーを犯人として示していた。裁判官は処刑の決定を出したが、「ペンを壊さなかった」。ペンが壊されなかったということは裁判官が決定に後悔していないということを意味している。

数年後に実行される処刑
裁判が長引くほど判決は遅れた。1960年まで処刑を行うことができなかった。5月27日(の1960年クーデター)以降、国家統一委員会は処刑の判決を認めた。Bボレキ屋アリーは12月24日の朝に絞首刑の実行のため、エミノニュへ連れていかれた。4時30分に絞首台へと連れて行かれたが吊るせなかった。なぜなら死刑執行人は酔っていて首にロープを引っかけられなかったからだ。殺人犯の反応は「神でさえ私が絞首刑に処されることを望んでない」というものだった。警察署長が執行人を腕を引っぱって、自分でロープの輪をボレキ屋アリーの首にかけた。ボレキ屋アリーは5時間30分間絞首台に吊るされた。人々が訪れ処刑を見物した。しかしこれが最後の公開処刑である。この処刑の後に廃止された。

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( 翻訳者:谷知起 )
( 記事ID:52029 )