歴史を超え、跡形も無きものの内なる世界を探し求めて(1)
2021年12月05日付 Hamshahri 紙


作家であり研究者でもあるモフセン・ヘジュリー氏は、50作品近くの文学作品を執筆されており、その多くには時空に関するテーマがある。そして、青春と晩年という2つのものについて語りかけている。同氏の代表作には、『サルバダーラーン』、『イラン人的な思考の物語』、『鷲の目』、『第8の国』、『国立庭園の陰』そして『モシーロッドウレの執事』が挙げられる。同氏の最新作『アラスの跡形も無く』はこのたび、児童青少年知育協会のブック・オブ・ザ・イヤーに選出された。これを受けて、我々はモフセン・ヘジュリー氏にインタビューを行った。

——「ヘジュリーさんが『アラスの跡形も無く』を執筆されるにあたって、比較的無視されがちなイラン暦1320年代【西暦1940年代】に関する出来事がその根底にありました。ヘジュリーさんは何に駆り立てられてこの歴史的に特別な出来事に惹かれたのでしょうか?」

ヘジュリー氏: 全ての発端は、ジョルファー[訳注:イランのアーザルバーイジャーン州の都市]への旅にあります。国境のすぐそばにあった今は亡き3人のイラン人国境警備官のお墓に向かって、望郷の念を感じさせるようなこの地に埋葬された三人の運命がどのようにして決定されたのかを尋ねました。とりわけジョルファーには墓地がなく、商売や仕事のためにジョルファーへやって来た方々が亡くなられた場合、故人の出身地で埋葬されるのです。ですから、このような環境の中で、今は亡きこの三人のお墓を訪ねたら、「一体なぜこの3人の国境警備官はこの地に埋められているのだろうか?」、「三人の身には一体何があって、一体誰が三人をこの地に埋葬したのだろうか?」と自身に問いかけることとなるでしょう。この3人の国境警備官の墓石には、ただ「イラン暦1320年シャフリーヴァル月[訳注:イラン暦6月、西暦1941年8月23日から9月22日]、彼らは外敵に抵抗す」と刻まれているだけなのです。つまり、連合国が南北からイランへ侵攻して、第二次世界大戦においてイランを勝利するための生命線にしたイラン進駐とまさしく同じ日付であります。ご存じの通り、進駐はイラン暦シャフリーヴァル月3日[訳注:西暦1941年8月25日]に始まり、この3人の国境警備官が侵攻に対しておよそ48時間抵抗したという史実に着目すると、論理的に推測すれば、三人が殉教されたのはイラン暦シャフリーヴァル月5日[訳注:西暦1941年8月27日]、あるいは6日[訳注:西暦1941年8月28日]といったところでしょう。一方で三人の墓石には、殉教された忌日がイラン暦シャフリーヴァル月3日だとありました。しかし作家である私には疑問の余地がありました。「中央政府が衰弱し、多くの仲間が逃げ出していったにも関わらず、この3人の国境警備官が命の限りを尽くして死に抗い、そして自身の死を受け入れたその裏には一体何があったのでしょうか?」と。今は亡き三人の当時の情況に思案を巡らす中で、私はただならぬ出来事に遭遇したように感じました。むしろ、私の目の前で起こっている出来事は日常の中で起こるような出来事ではなく、神話のような出来事だったのです!登場人物が架空の人物ではなく現実世界にかつて存在した人物であり、この地に辿り着いていたという点では違いますがね。

——「この作品をお書きになる以前、どれほどこのテーマについて見識をお持ちで、ジョルファー地域の環境や地理を説明するにあたって、どのような方略をお取りになったのでしょうか?」

ヘジュリー氏:初めてこの地を訪れたのはイラン暦1387年[訳注:西暦2008年]のことでした。その後、私はさらに2回この街に足を運んでおります。当然、現地に身を置くことで、書き手は想像を膨らませることができます。しかしながら、私たちがおよそ80年前に時を戻そうとすれば、物語の環境や舞台が別の意味を持ってしまい、単に写真を撮影することで得られる利益はもう何も残っていないのです。ジョルファー地域は何年にもわたり、多くの気候変動に曝されてきたようです。アラス川の川幅から、流れの激しさや気温、そしてとりわけ重要なことですが、ここで暮らしていた全ての人々に至るまでです。ジョルファーという都市の歴史はサファヴィー朝まで遡ります。サファヴィー朝以前であっても、この都市が交易の要所であったことに疑いの余地はありません。しかしながら、イラン人国境警備官3人の英雄叙事詩が生まれた場所であるこのジョルファーには、この地理的場所の裏に何かがあるはずで、もうジョルファーを単なる地図上の一地点として表示することは不可能であります。

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( 翻訳者:OI )
( 記事ID:52310 )