ハタイの血の凍る惨状
2023年03月08日付 Milliyet 紙


トルコを悲しみに息も絶え絶えにさせた地震から1ヶ月が過ぎた。他県に行くあてのある者はハタイから出ていき、残った者はテント、電車の車両、船、コンテナ・ハウスなどでなんとか暮らしを続けている。衛生面、水、トイレの問題...。家を恋しく思い、家の行く末がどうなるかということが、被災者共通の心配事である。地震によって負った傷を癒そうとする中、ハタイの状況はどうなっているのか知ろうと街を歩くと、記者はかなりの衝撃に直面した。

取材:エルジャン・サルカヤ、エルジャン・アルスラン

ハタイの通り、歴史的空間、通りは崩れ、何もなく空っぽである。まるで廃墟となった都市を見ているかのようだ。通りでは工作機や瓦礫を運ぶトラック以外に、動くものはない。

街全体を砂嵐が被ったような状況である。運ばれていく瓦礫からゴミの山ができるかのようである。軍警察は、崩壊した建物の周りで番をしている。路地に入ると崩壊の度合いがよりよく分かる。何百人もの人の墓場となってしまったマンション「ルネサンス」の瓦礫も、まだ運搬されていない。

村では、状況は比較的落ちつていている。しかし、村に家を持つ人たちは、村に移動したが、未だ続く余震を恐れ、家には住めない。村の家の庭にテントを張って生活している。食事に関する問題はないが、唯一欲しいのは、一時的に落ち着いて生活ができる場所と、傷が一刻も早く癒えることである。


■「ある人は建物を、ある人は家財を探している」

街の路地では瓦礫の中に自分の家を探す人々、家財を探す人々がいる。被害を受けた建物から家財を持ち出そうとする人々もいる。アンタキヤの歴史的建造物が多く存在するクルトゥルシュ通りはといえば、瓦礫の山に変わってしまった。夜の通りは人気がなく、物音ひとつしない。記者は、シャベルカーで瓦礫を掘る人をみて、近づいて質問した。ある女性は瓦礫の中にある自分の家を探していた。母親と姉とともに2階建ての家に住んでいる時に地震の被害にあったセルマ・ルドヴァンオールの一家は、母親を助けることはできたが、姉のネスリンさんを亡くした。家に戻ると、建物が完全に無くなっているのを目にした。シャベルカーを賃借りして、今瓦礫の中にある自分たちの家を探している。記者がハタイの街を歩いていて出会った、涙を浮かべて崩壊した家を見つめるスヘイラ・ウズンさんは「全ての希望、夢、過去が消えて無くなってしまった。」と話した。数は少ないが、街で出会った全員が「ハタイはどうしたら再び元通りになるのだろう」と問いかけている。

■「暖かい家の代わりにはならない」

4万6千人以上の死亡者が出たカフラマンマラシュ県パザルジュク郡及びエルビスタン郡を震源とする、マグニチュード7.7及び7.6の地震発生から30日が過ぎた。最も大きな被害を受けた都市の一つであるハタイで、何千もの人々が街を出て、残った人々は外部からの支援によってなんとか生活している。テント、トルコ国鉄(TCDD)の鉄道車両、慈善家の実業家が送った船、災害緊急事態対策局(AFAD)が開設したコンテナ村が、新しい生活の場となった。誰もが願うこと、それは一刻も早く家に落ち着くことである。

ナポリに本社を置くMSCクルーズ社は、クルーズ船を被災者たちの生活の場として派遣した。イスケンデルン港に係留されている船で700人の被災者が生活している。船では、子供たちのためにイベントが開催されている。地震で腕を骨折したムスタファ・バーラルさんは、5人家族で船に住んでいる。船にいられることが幸せだというバーラルさんは、「この大変な日々もいつかは終わる」と話した。

小学校に通うエリフさんは、早く学校に戻りたく、学校の再開が待ち遠しいと話した。生後6ヶ月のアルデンちゃんと船で生活するメルエム・ネルギズさんは、「テントの中は寒い。船の環境はテントよりもかなり良くて、より安全だ」と話した。55歳のハニフェ・ユルドゥルムさんも、テントが寒すぎるたので船に移動することになったと話した。

■「水とトイレが必要」

ハタイではAFAD、自治体、ボランティア団体の開設したテント村では何千人もの人が暮らしている。ライオンズクラブ・トルコと自治体が共同で開設したテント村では、3食の食事は国連から提供されている。記者は、医療サービスも受けることができるこのテント村に暮らすヒュルヤ・エケレルさん、シェケル・タシュさん、メフメト・マンザラさんのテントにお邪魔した。ヒュルヤ・エケレルさんは、地震で配偶者を失い、自身も瓦礫の下から救出されたとし、「今後状況はどうなるのだろうか、どうやって生活していくのか、どうやって仕事をするのか、子供たちの教育はどうなるのか。街はどのように再建されるのだろうか。」と話した。

■「朝起きたら全てが失われていた」

ハタイでは被災者のために、コンテナ村も開設されている。ガレリジレル・コンテナ村では、1200人が生活している。テント村から出てコンテナ村に移動できた人々は、自身のことを幸運だとする。ファトマ・ボズクルトさんは、20日間で4箇所も住む場所を変えた。ボズクルトさんは、「家も車も全てを持っていたが、ある朝起きたら命以外の全てが失われてしまった。家に住むことができるようになるまで、コンテナが私たちの家になる。」と話した。ハイリイェ・イシュレッキさんは、地震発生時に子供たちと配偶者とともにベランダに逃げたので命が助かったと話し、「20日間はテントで暮らした。水、風呂、トイレが大きな問題だった。今はコンテナ村でこの問題も無くなった。」と答えた。

■「家は寂しがっているだろう」

イスケンデルンの鉄道車両基地の寝台・旅客列車では、1000人が生活している。
3度の食事も提供されている。行く宛のない被災者が、車両で生活について教えてくれた。地震により家が大きく被害を受けた大学生のブーセ・チェルミさんは、家族とともに寝台列車で生活する。今まで起きたことは悪い夢だと話すチェルミさんは、「この悪夢はいつ終わるのだろうか。」と問いかける。また、高校生のメルイェムさんは、生後6ヶ月の兄弟ウムットちゃんと家族とともに寝台列車で暮らし、家と学校に一刻も早く戻りたいと話してくれた。賃貸で暮らしていた人たちも、安全な家で暮らすことを夢見ている。

旅客列車で母親、父親、配偶者そして子供たちとの生活を余儀なくされているナジイェ・デレボズさんは、最大の問題は水とトイレだという。持ち家が、軽度の被害との評価を受けたデレボズさんは、「家は寂しがっているだろう、私たちも早く家に帰りたい。」と涙ながらに語った。年金で生活するユルマズ・チュチュックさんは、列車での生活がいつまで続くのかわからない、と話した。

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( 翻訳者:章由実 )
( 記事ID:55176 )