イスラエル、ガザのマムルーク時代やオスマン時代の遺跡破壊
2025年11月18日付 Hurriyet 紙
イスラエルは、ガザ襲撃の間に800年の歴史を持つマムルーク時代から残るパシャ宮殿を廃墟に変えた。パシャ宮殿の2万以上もの歴史資料はイスラエルの兵士たちによって略奪された。
イスラエルは、ガザ地区へのジェノサイドで民間人を虐殺し、家々を破壊するだけでなく、歴史的建築物をも標的にした。
ガザ地区でマムルーク朝時代に建てられたパシャ宮殿もイスラエルに標的にされた建築物の一つだ。
イスラエル軍の1994年(オスロ合意によって)撤退前の攻撃で広範囲にわたり破壊された宮殿は、イスラエルの直近の襲撃で再び破壊と略奪にさらされた。
イスラエル軍はガザ地区での2年にわたる攻撃でパシャ宮殿から約2万点の希少な考古学作品を略奪し、宮殿を破壊した。
技術者らは、大半が廃墟と化した宮殿に残ったものを保護するために瓦礫の中を捜索している。簡易的な器具と限られた手段で周囲に散乱した歴史作品に関連する破片を探す技術者らはガザの歴史的アイデンティティに残ったものを保護するよう努めている。
■歴史に背く人間の罪
占領下におかれたヨルダン川西岸地区のベツレヘムにある文化遺産保護センターの文化遺産専門家であるハムダ・デフダル氏は「宮殿はマムルーク朝時代(1250-1517)に建設され、およそ8世紀の歴史を有している」と述べた。
デフダル氏は「イスラエルの行った破壊、歴史資料の略奪で宮殿の70%以上に影響があった」と話した。
宮殿にはビザンツ、ローマ、オスマン時代に関する重要な考古学的作品があったと伝えるデフダル氏はイスラエル軍が1994年に調印したオスロ合意で撤退する前の攻撃でも宮殿が広範囲にわたって破壊されたと発言した。
デフダル氏はパレスチナ政府がイスラエルの撤退後に宮殿を再建し、価値のある歴史的作品を展示するする博物館にしたことについて言及した。
デフタル氏は、文化遺産チームは現在地域の組織と文化遺産保護センターと共同で宮殿において「緊急保護」プロジェクトを進めていると述べ、プロジェクトが事前措置として残った歴史的破片を取り出し、将来的に再建される部門を守るという内容を発表した。
パレスチナ政府メディアオフィスのイスマーイール・サワービタ局長は、イスラエル軍がガザで歴史的な場所を広範囲にシステマティックに破壊したと述べた。
これをイスラエル政府はパレスチナのアイデンティティを消し去る目的で政治的な観点から行っていると主張するサワービタ氏は以下のように続けた。:
■オスマン朝時代の作品も破壊した
「公式統計によると、イスラエル軍は大半がマムルーク朝とオスマン朝時代、一部はヒジュラ暦一世紀からビザンツ時代にかけて316以上の歴史的な場所や建築物を完全に、部分的に破壊した」
サワービタ氏はガザの歴史的な作品が破壊されるだけでなく、組織的に略奪されていることに警鐘を鳴らした。
「イスラエルの攻撃で、特に2万点以上の希少な作品のあるパシャ宮殿博物館が占領・破壊された後、何千もの歴史資料が失われた」と述べる同氏は、これらの資料の歴史は紀元前からオスマン朝時代にまで遡るものだったとした。
■歴史資料がパレスチナの歴史を反映していた
これらの歴史資料が「最重要な歴史の一部分をなしていたと述べるサワービタ氏は、ひとつひとつがパレスチナの歴史を反映していたと述べた。
サワービタ氏は、イスラエル軍の撤退後あらゆる歴史資料がなくなっていたことで、大規模な略奪がおこなわれたことが明るみになったとした。
パシャ宮殿は、ガザの最も重要な考古学博物館として認められ、パレスチナの最も価値の高い歴史的建造物とひとつであった。
公式情報では、宮殿の2万点以上の希少で多様な考古学資料が存在していた。イスラエル軍が宮殿を完全に破壊し、すべての歴史的作品が失われ、形跡すら残らなかった。
■イスラム建築の最も重要な例であった
ガザの観光古代遺産省が2022年に発表した考古学の手引きによると、デレジ地区にあったパシャ宮殿はパレスチナにおけるイスラム建築の発展を示す最も重要な一例であった。
手引きでは、宮殿建築の特徴はマムルーク朝時代の哲学を反映しているとされている。建物には、マムルーク朝のシンボルである双頭のライオンの紋章が入口にみられる。
宮殿は、中心に広い中庭のある二つの建物で構成されている。南の建物の正面に入口があり、豪華な装飾が目を引く。また「星形ロゼット」、アーチ状の通路、先の尖った半円のアーチのような装飾があり、時代の芸術をよく表している。
観光文化組織の努力によって2005年、2010年、2014年に国連開発計画の援助で3つの段階的な再建に入った宮殿は、最終的に国立博物館となった。
■宮殿には時代によって様々な名前があった
パシャ宮殿はガザの歴史を反映する様々な名を持っていた。
マムルーク朝には「ダル・アルサード」として知られ、オスマン朝時代にはガザを支配したルドバン一家に関係する「カスル・ルドバン」と呼ばれていた。
1799年にナポレオンがガザを攻撃した際に、宮殿はフランス軍によって本部として利用された。そのため市民たちには「ナポレオン城」といわれた。
オスマン朝末期に宮殿は、ガザ知事の行政本部であった。1918年イギリス占領後は、警察本部として使われた。
エジプト統治時代(1959-1967年)にはファルク王の姉妹の名前をとり「フェルヤル王女の学校」となった。1952年の革命以降は「ゼフラ女子高校」に変更された。
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( 翻訳者:安孫子織絵 )
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