イラク:イラク・モデルとは
2026年09月13日付 その他 - alSharq-alAwsaat 紙


■イラク・モデルから学ぶ必要性について

【ハーズィム・サーギヤ:本紙】

イラク・モデルを何度も引き合いに出すことは、無意味な、あるいは無駄な営みではない。それは、ある意味で、アラブ・マシュリクが辿ってきた大きな潮流の一つであり、その最も劇的かつ危険な帰結が、今日まさに姿を現しつつある。

ここでいうイラク・モデルとは、次のようなものである。きわめて凶暴かつ攻撃的で、拡張主義的傾向を持つ体制を、国民自身では排除できず、実際、1991年に南部と北部で起きた二つの蜂起もその排除に失敗した。その後、この体制を排除する役割を担ったのが、米国という外部勢力だった。米国は、国際法とその諸制度による裏付けを欠き、その代わりに嘘と捏造を用いて戦争に乗り出したものの、米国による占領は、とりわけ住民が自らの代表を選出する代表制を確立したという点において、解放でもあった。戦争の直前直後において、独裁者の排除をめぐって広範な喜びが広がり、楽観主義と素朴さを結び付けることで知られる米国的な傾向が、この喜びをさらに強めた。一方、「ネオコン」は、イラクの変革が、イラクという元来の発祥地を越えて地域全体に広がる民主主義モデルを構築する入口となると喧伝した。このようにして、抑圧された偉大な国民が忌まわしき抑圧体制を打倒したという二項対立に基づく言説が流布した。つまり、前者は勝利する絶対善であり、後者は敗北する絶対悪である、という構図である。

しかし、「国民」は数か月後には、自らが長らく隠してきた現実、すなわち宗派や民族集団から成り、それらが互いに争い合う存在であることを露呈した。一方、米国人に関しては、その占領にはいかなる解放の側面も伴わない、単なる占領者としてのイメージが一般化した。これとまったく同じように、宗派的な構成は、代表制民主主義を取り込み、それを各宗派の成員や各集団の構成員の頭数を数えるための単なる計数機へと作り変えてしまった。そして、メソポタミアで日本の経験が繰り返されることはなかった。性急な楽観論者らはそれを期待していたが、実際には、マッカーサー将軍に代わってカースィム・スレイマーニーが現れ、やがて民兵勢力が台頭していった。そして数年後、「ダーイシュ」の出現が、そうした民兵勢力に自らの存在意義を誇示する格好の口実を与えたのである。

<<後略>>

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( 翻訳者:大森耀太 )
( 記事ID:62800 )