コラム「女性の権利と新たなエジテハードの必要性」:ファーゼル=メイボディー

2007年06月07日付 E'temad-e Melli 紙
モハンマド・タギー・ファーゼル=メイボディー

 第一に、女性に関して存在する数々のイスラーム法学上のファトワー(教令)やシャリーアの法規定〔訳註1〕(その一部は民法や刑法の基礎にもなっている)は、果たして現代における女性の諸権利を十分に認めていると言えるだろうか。第二に、宗教的な問題を扱った論文の中で提起されている女性の権利に関する法規定は、過去・現在を問わず、イスラーム法学者たちによって見解の一致をみてきたのだろうか、それともイスラーム法学者間の対立点の一つなのだろうか。第三に、これらの法規定は、新たなエジテハード〔訳註2〕を受け入れ、変化を許容するものなのだろうか、それとも永続的・不変的な法規定なのだろうか。

  1. クルアーンの見地に立つならば、男女は自らの本性(ほんせい)を発展させることにおいて、互いに対していかなる差異や優越性ももたず、また創造においては同じ究極の目的を共有していることに、疑う余地は無い。

    人間としてもっとも完成された姿とは、他者の模範・手本となることである。このような見地に立つならば、女性もまた男性、女性を問わず、模範となることができる(クルアーン:第66章「禁断」第9節)〔訳註3〕

  2. シャリーアの法規定の究極の目的を推定する際、宗教の規定が宗教の目的と矛盾しないようにすることが重要だ。「矛盾している」、あるいは「矛盾していない」というのは、相対的な事柄であると言うことも可能だ。

    例えば、たとえ奴隷制・人身売買が本質的な問題とされず、公正なものとしてこの取引が理解されていた時代があったとしても、今日奴隷制を認める法規定は擁護しえない。あるいは、親の命令があれば未成年の女子の結婚が認められた時代があったとしても、そのような結婚を認める法規定は今日にあってはシャリーアに則った合法的なもの、理性的なものであるとは言えない。なぜならば、《賢者の慣習》〔=一般の理解〕では、このような結婚は非難すべきものと考えられているからだ。

  3. ここで、男女間の不平等について問うことが重要だ。現代世界における女性の社会的アイデンティティや尊厳は、古くから認められてきたものではない。女性は今や、政治的・社会的領域に積極的に参加しているが、このような参加は過去には存在しなかったものだ。必然的に、この件に関して定めた法規定や法律も時代に合わせる必要が出てくる。

    ディーヤ(賠償金)やキサース(同害報復)、相続をめぐる一部の問題などについての法規定や、職業や市民としての基本的権利に関する法律は、〔男女の〕社会的関わり合い方に基づいて定められるものであり、肉体的な差異に基づいて定められるものではない。

    部族的・家父長的な社会制度にあっては、〔男女間の〕不平等の多くも正当化しうるかもしれないが、このような不平等は今日の都市的な市民社会制度では正当化しうるものではない。別言すれば、ある法律や法規定は、ある制度においては公正なものであったとしても、別の制度においては公正ではないということがありうるということだ。

  4. シーア派法学は、時代や状況に応じた柔軟性を有している以上、シーア派法学者が女性や男女間の不平等に関する法規定に対して、新たなエジテハードを行うことは正当な行為である。なぜならば、このような〔男女間の不平等を認めるような従来の〕法規定を不変的なものであると考えることはできないからである。

    「政治的領域において一部の役職を女性に認めない」〔訳註4〕、「一部のケースでは女性の証言の有効性を認めず、また別のケースでは男性の半分の有効性しか認めない」、「夫の遺産の相続権を女性に認めない」、「離婚請求権を男性の占有権であるとする」、「親が許可すれば未成年女子の結婚も合法であると認められる」、などのこの種の法規定は、現代にあっては正義からほど遠いといえるだろう。

    このような問題に関して、イスラーム法学者がこれまでの伝統に基づいて判断を下すならば、宗教の目的を宗教的法規定の犠牲に供していると言えるかもしれない。宗教の真の目的である正義こそ、つねに宗教的法規定という「実体」を包み込むものでなければならない。専門家は、男女間のディーヤの不平等が正義に則っているか、正義から逸脱していないか、自らの見解を表明すべきであろう。

  5. もしわれわれが、シーア派法学の高い能力に基づいて、上述の問題に対して新たなエジテハードを行い、こうして得られた法規定の内容を時代状況の中で認識するならば、「人権」に対するわれわれの違和感も軽減され、その一方で女性の発展や完成のための道もより開かれたものとなったであろう。イランの女性たちは、たとえ一部のケースで平等を求めているとしても、この問題がクルアーンや〔預言者やイマームたちの〕スンナ〔慣行〕を通じて解決されることを好ましいと考えている。当然、自らの権利に関して女性たちが求めている問題は、政治的な論争である以前に、シャリーアにも認められていることである。しかし、もしこの問題がシャリーア的見地から解決されなければ、政治的な反発へと変容してしまう可能性もある。

    西洋のフェミニズムは、キリスト教会の硬直化した思想や一部の哲学思想、女性の権利に対して加えられた政治的圧力に対する反抗であった。アリストテレスやショーペンハウアー、ニーチェといった哲学者や、トルストイやバーナードショウといった文人たちの女性に関する思想は、イスラーム以前の無明時代のアラブの思想にそっくりだ。その他の哲学者たちや宗教の監督者たちは、このような思想を正そうともしなかった。結果として、フェミニズム運動が生まれたというわけだ。もちろん、フェミニズムも数多の問題をもたらしているのだが。

  6. 女性の権利について議論・検討する際、現在次の三つの道が存在する。

    一:伝統主義の方法、すなわち、女性の権利はすでに伝統的なイスラーム法学で規定されており、その法規定を逸脱することは聖なるシャリーアを逸脱することに他ならないと考えるアプローチである。

    二:「一」の方法と正反対の慣習主義的なアプローチ、すなわち世俗主義的アプローチである。それは西洋で生まれたアプローチと類似している。

    三:宗教革新主義のアプローチであり、女性の権利に関して新たなエジテハードを行うアプローチである。

    第一と第二のアプローチでは、女性の権利を回復することはできず、この問題は、少なくともイスラーム諸国では、依然として解決されぬまま残されるように思われる。女性の権利を政治的な論争から離れて正しい方法で実現させることのできる可能な唯一の方法とは、イスラーム法学上の法規定を見直すことである。再度強調したいのは、イスラームのシャリーアは慣習と理性に留意して、一部の不平等を平等なものにすることができる、ということだ。

    この新たなエジテハードと〔既存の法規定の〕見直しは、時代に合った新たな法規定を抽出するべく、イスラーム法学者たちが法律やその他の専門家たちとともに、女性の権利について再認識することで、初めて実現する。そうではなく、先述の第一のアプローチのように、単に過去のテクストに依拠し、時代や状況の中で慣習となっている事柄を無視するならば、一部の西洋社会で起き、現在イラン社会の隠れされた内側で起きつつあるのと同じ結果をもたらすことになろう。



訳註1:「法規定」とは、クルアーンやハディースといった法源から導き出されたイスラーム法の具体的細則や判断のことを指す。

訳註2:エジテハード(イジュティハード)とは、法源からイスラーム法を導き出す営為のこと。

訳註3:これ、預言者、無信仰者や似非信者とはあくまで戦いぬけよ。思いきり手荒に扱うがよい。どうせ彼らの行きつく先はジャハンナム〔地獄〕。まことに、おぞましい旅路の果て。(井筒俊彦訳『コーラン』下、岩波文庫、p.212.)

訳註4:女性は大統領になれない最高指導者専門家会議の議員になれない、などの女性に対する制限を指す。


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翻訳者:斎藤正道
記事ID:11094