バスィージのいま・むかし

2008年11月22日付 Jam-e Jam 紙

【政治部】バスィージ〔「動員」の意。一種の民兵組織〕が創設されたとき、出来事の表層しか見ようとしない人々は、当時の危機的状況が終わりを告げれば、バスィージとバスィージ隊員もその役割を終えるに違いないと想像したことであろう。

 バスィージが創設されたのは、イスラーム革命の勝利からほんの9ヶ月が経った時のことだ。イラン・イスラーム共和国という生まれたばかりの体制を守護するためには、人民による部隊を活用することが必要だとする考えから、イマーム・ホメイニーが同部隊の創設を命じられたのである。

 成就したばかりの革命、国内危機の発生、テロの横行、国防組織の混乱。人民による部隊の活用が喫緊の課題となった背景には、これらの事情があった。イラン・イスラーム共和国の創設者〔=ホメイニー〕は1358年アーザル月4日〔1979年11月25日〕、バスィージ創設へと結実することになる、ある発言を行っている。「イスラーム国家では全てが軍事的でなければならない。そこでの教育は、軍事的なものでなければならない」。

 この詔勅を受けて、人民に必要とされる一般教育へ向けた最初の施策が始まり、人々もこれに応えて、一般バスィージへの参加を表明することになる。彼らが最初に行ったのは、反革命武装勢力との対決において、革命防衛隊や各地の革命委員会を支援することであった。

 イマーム・ホメイニーの指摘に呼応する形で、イスラーム革命評議会は1359年4月19日〔1980年7月10日〕、「国民バスィージ機構」の創設を承認、同機構は志願者たち全員に教育を施し、彼らを組織化すると同時に、国内外のあらゆる脅威・侵略に対抗するための訓練を行うこととなった。

 コルデスターン地方をはじめ国内では武装闘争が始まり、さらに1359年シャフリーヴァル月31日〔1980年9月22日〕には「強要された戦争」〔=イラン・イラク戦争のこと〕が勃発したことで、バスィージの活動にも新たな段階が到来することになる。

 革命後、国軍は司令官らが大幅に交替するなどの変化を被ったが、イマーム・ホメイニーの聡明なる指導によって解体の危機を免れることができた。しかしにもかかわらず、敵に対して強固な防衛を築くほどの力は残されていなかった。

 革命後創設された革命防衛隊もまた、敵に対抗するだけの装備を欠いていた。このような状況の中で、国民の内部から沸き起こってきたバスィージの役割は極めて明瞭であった。1359年デイ月〔1980年12月下旬〜1981年1月下旬〕、国会は「国民バスィージ機構」を「被抑圧者のバスィージ部隊」に名称を変更する決議を行い、同部隊をイスラーム革命防衛隊に編入、指揮権も革命防衛隊に委譲されることとなった。

 〔イラン・イラク戦争の〕戦線にバスィージ隊員が投入されたことで、バスィージ部隊は国軍及び革命防衛隊と並んで、イラン・イスラーム共和国軍の主力を担うほどの重要性を帯びるようになった。戦争が終結して20年近くが経った現在ですら、いまだに「バスィージ」ということばは戦線の記憶を連想させるものとなっている。

 「被抑圧者のバスィージ部隊」は戦争終結後の1369年〔1990/91年〕までその活動を続けた。同年、「被抑圧者のバスィージ部隊」は「バスィージ抵抗部隊」に改名され、独立した司令部を有する、革命防衛隊を構成する五部隊〔※五部隊にはバスィージの他に、革命防衛隊陸軍、同海軍、同空軍、ゴドス部隊(海外活動を担う部隊)がある〕の一翼として、バスィージ関連の職務を一手に担うこととなったのである。

イラン・イラク戦争後の任務の見直し

 「強要された戦争」の終結とともに、創設当初より軍事的活動にもっぱらかかわってきたバスィージ抵抗部隊には、活動内容の見直しが求められるようになった。当時国の再建が課題とされていたことから、バスィージの活動にも新たなモデルが必要とされていたのだ。

 革命最高指導者〔=ハーメネイー〕はバスィージについて、「バスィージとはすなわち、それがどこであれ、戦士の存在が必要とされる場に馳せ参じることなり」と仰っている。師は様々な領域にバスィージが参加することの必要性について、次のように述べられている。「バスィージとは、戦争の時代には戦争を行い、後方支援の時には後方支援を行う、科学の時代にあっては教育を行い、建設の時代にあっては建設を行うことなり」、と。

 最高指導者はまた別の箇所で、次のようにも仰っている。「バスィージとはすなわち、イスラーム体制と国家が必要とするあらゆる領域に、前衛的人間が勇敢かつ自己犠牲的、献身的に身を投じることなり」。

 バスィージが戦争後、新たな枠組みの中で国家建設や文化・教育、社会、学術、〔被災者や貧困層への〕救助・支援といった各領域で活動を継続していったのは、このような定義にもとづくものだったのである。

 その数年後、バスィージから武器を取り上げ、同部隊を非軍事組織に衣替えするべきだとの囁き声が聞こえるようになったのも、戦争後の社会状況やバスィージが国家建設の分野に参入していったことがその背景にあるものと思われる。78年ティール月18日の大学寮騒擾事件〔※訳注:1999年7月9日のテヘラン大学寮襲撃事件を指す。改革紙の発行停止に抗議する学生らによる抗議運動と、体制護持を訴える極右グループによる学生寮襲撃事件のこと〕は、このような議論が囁かれていた最中の出来事であった。

 当時3〜4日にわたる騒擾の後、事件の収拾に活躍したのは、事件現場に大規模に展開したバスィージ隊員たちであった。そしてこのことが、バスィージを非軍事組織として衣替えすべきだとする意見に終止符を打ったのである。ティール月18日は、国内の治安維持という役割をバスィージが担うべきであることを再び明確にし、人民による部隊が様々な種類の脅威に対して、いかに守護者としての役割を演じうるのかを示す契機となったのである。

ソフトな脅威への対抗

 78年〔1999年〕以降、大学寮事件のごとき出来事を生み出した背景となるものが形成されるのを予防することが、喫緊の課題として認識されるようになった。バスィージの主要な活動もこのようなこと、すなわち「ソフトな脅威」に対抗することに割かれるようになっていった。〔※訳注:体制にとってテヘラン大学寮事件は、「学生による抗議運動と極右グループによる襲撃・弾圧」としてではなく、「アメリカ等が学生らの内面に侵入し、東欧のビロード革命をイランで再現させるための陰謀」として理解されている〕

 現在新たな状況のもと、バスィージとイスラーム革命防衛隊では機構改革が行われているが、それは主に敵の脅威が対称的なものから非対称的なもの、ハードなものからソフトなものに変化していることに由来している。革命防衛隊司令官らの言を借りれば、現在脅威は地域ごとのモザイク型のものとなっている。それゆえ国の各地域が敵の脅威に晒された場合、兵員2千万人の国軍ならびに革命防衛隊は可能な限り速やかに、敵のあらゆるレベルの脅威に対応する必要があり、そのため自給自足的な独立した地域ごとの指揮命令系統がすでに確立されているという。

 「革命防衛隊改革向上計画」においては、バスィージの強化が防衛隊の任務の半分を占めており、新たな機構ではバスィージは革命防衛隊の戦闘部隊とより強固な関係をもつことになる予定だ。また新たな計画では、バスィージ部隊は150あるイマーム・ホセイン大隊を革命防衛隊陸軍に追加編入する一方で、600あるアーシューラー大隊ならびにアッ・ザフラー大隊を各州・各県で組織化することになっているという。

 新たな計画でバスィージに課せられたもう一つの任務に、「国家永続的安全計画」というものがあり、バスィージ週間の終了時にも実施へと移される予定となっている。それによると、バスィージ部隊は各地区に駐屯して、国をならず者どもや治安攪乱要因にとって「居づらい場所」にする計画とのことだ。なお、何か事が起きた場合の対応は治安維持軍に委ねられることになっている。

 新たな情勢におけるバスィージ抵抗部隊〔の役割〕、そして革命最高指導者の指摘に鑑みるならば、バスィージが創設されてからすでに30年近くが経過した現在も、同部隊の存在意義はいささかも失われてはいないことが分かる。その理由は何よりも、バスィージ抵抗部隊が人民による部隊であること〔‥‥〕に求められるであろう。


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翻訳者:斎藤正道
記事ID:15206