イランのお菓子秘話:「ガンド屋」から魅惑の「菓子職人」まで

2013年03月13日付 Jam-e Jam 紙

 【マフブーベ・セイフォルエラーヒー】いったい誰が、どこで、いつ頃から、袖をまくり、どうして小麦粉と油、そして砂糖を混ぜ合わせ、柔らかな「たね」を手に取り、クルミの実ほどの大きさに分けて 、手で形を整え、それらを熱く焼けた釜に入れて焼き始めたのだろう。しかし、今となってはいつのことかも分からない時代に、その人、あるいは、そうした人々が、これらの作業を始めた結果、今日数十億もの人々が、彼らが考え出した菓子というものを味わっているのである。

 菓子作りは、芸術である。それは、真の芸術のもつあらゆる魅力を備えている。まず、口に入れる、そして、ゆっくりと舌の上でとろけるうちに、味が口いっぱいにひろがる。お菓子のない生活なんて、考えられない。 あの味をあきらめるなんて、誰にもできないだろう。栄養学の専門家がいくらその害を並べたてても、素直に耳を傾ける人はあまりいない。なぜなら、この世にある他のどんな物も、菓子の代わりにはならないからだ。

 中東の人々は蜂蜜たっぷりのお菓子に目がない。ナッツ類でトッピングし、生地にいろんなものを混ぜ込んだ菓子を、食後に、または食事と一緒に食べるのが大好きだ。ヨーロッパの人々は、朝食に甘いものを食べるのが好きだ。チョコレートや季節の果実をちりばめたケーキを好む。東南アジアの人々には米を用いた蒸した菓子が好まれる。我々イラン人は出された菓子は、どんなスタイルのものでも美味しくいただいてしまう。どんな場所であれ、どんな口実であれ、お菓子がひとたび我々の集まりに登場したなら、甘美な味の幸せが、私たちの時間までも甘美なものへと変えてしまうのだ。 

 
■ナーセロッディン・シャー時代の名残り
 
それにしてもこの国では、一体誰が発見したのだろうか。幾つかの手近な食材を混ぜることで、こんなにも人々を魅惑する異色の食べ物が創り出されるということを。それは、歴史上の神秘であり、私たちにとっての謎である。しかしながら、歴史書に目を通して歴史的な手掛かりを辿ると、他の多くの事柄と同じように、菓子作りにおいても重要な役割を果たした、我々にとってもなじみのある人物の名前に行き当たる。

 ナーセロッディン・シャー[ガージャール朝の王、在位1848~96年]は、我々の[菓子作りの]歴史の中で直接の役割を担ってはいないにせよ、イラン産のガンド[*]生産で果たした役割によって、菓子作りとは切っても切れない存在である。さらに、もしも彼とその後のレザー・シャー[パフラヴィー朝初代王、在位1925~41年]がいなければ、ガンド市場や菓子作り業が活況を呈する原因となった、ガンド工場が根を下ろすこともなかったであろう。
※訳注:ザラメ糖をラグビーボール大の砲弾型に固めたもの、棒砂糖。

 私たちの祖先が歴史に書き残していることの中には、ナーセロッディーン・シャー時代のガンドについての逸話もある。それは、[現在、「菓子屋」を意味する言葉として使われている]「ガンド屋」という言葉が、ガンドやノグル[バラ水の香りがする、米粒ほどの小さな砂糖菓子]、ナバート[主にサフランなどで香りと色をつけた氷砂糖]などを商う者に対して用いられていたということである。当時、イラン国内で生産されるガンドが、味もそっけも無いものであったために、それに代わって、味良し香り良しのロシア産またはベルギー産のガンドが、お茶好きのイラン人に好んで用いられていた。

 ガンドを売るのが本業だった「ガンド屋」は、イラン産ガンドの販売だけでは全くもうけにならず、足が出るような有様だったため、彼らは外国産のガンドの販売にも乗り出すようになったのだった。ただそのことに、当然ながら、ナーセロッディーン・シャーは良い顔をしなかった。

歴史は、この国王の悪口ばかり言っているが、ガンドの品質向上に取り掛かり、キャフリーザック村でガンド製造工場を始動させたのは彼であった。しかし、ナーセロッディン・シャーの時代における全ての出来事が謀略と隣り合わせであったように 、12日後には工場が休止に追い込まれ、相変わらずロシア産とベルギー産のガンドが国中のガンド屋で販売され続けた。
ガージャール朝時代にはこの工場は失敗に終わったが、パフラヴィー朝の時代(年)に初めて成功を収め、イラン産の良質なガンドが日の目を見るようになる。

 イランにおけるグラニュー糖の物語も、これとよく似た話のはずだが、歴史はイランでグラニュー糖生産を興隆に導いた人々について、はっきりとは語っていない。分かっているのは、イラン太陽暦1300年(西暦1921年)以降、国産のガンドとグラニュー糖も多く出回るようになり、それまでの「ガンド屋」が今日見るような「菓子屋」に代わっていく過程の端緒となったということである。

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 ■菓子作りの《スルタン(皇帝)》

 この類まれなる味の数々を創り出した菓子職人たちは、みな無名のまま生涯を終えた。ただひとりを除いては。その男は、ヤズドに生き、すでにこの世を去ったにもかかわらず、その名が高い品質の証ともなっている。ハーッジ・ハリーフェ・アリー・ラフバル――彼は、自身が創り出した様々な菓子によってイランだけでなく世界中にその名を知られている。

 彼はイラン太陽暦1295年(西暦1916~1917年)にヤズドで小さな菓子工房を立ち上げて、世に知られる数々のお菓子を作った。おそらくアーモンドやピスタチオ、ココナッツ、アーモンドのロウズ[これらナッツ類の粉などで作り菱型に切り分ける生菓子]、ヤズド風ケーキを、ハーッジ・バーダーム[豆粉とナッツ類の郷土菓子]を、ゴッターブ[小麦粉とヨーグルトとナッツ類の生菓子]を、綿菓子を、水飴を、ソウハーン[薄くのした小麦の油菓子]を口にして、舌鼓を打ったことのある人は彼の名を知っているであろう。
 

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 ■イラン菓子のライバル

 イラン菓子の菓子職人たちの道具袋には、「ガンド屋」だった時代からの魔法のレシピがいっぱい詰まっている。しかし、我々の贅沢な、多様な好みに応えるために、香りと風味豊かなイラン菓子のほかに、[西洋の]本物をコピーした菓子を売り出そうとする者たちも現れた。

 苺タルトやフルーツ・タルト、チョコレートのタルトのほか、西洋の様々なケーキが、今日、イラン菓子のライバルになっている。目先を変えて新しい味を体験するためや、高級志向・見栄のために 洋菓子を買い求める人たちもいる。
 無論、洋菓子だって魅惑の味だ。しかし、イラン菓子がもつ、本物の味と故郷の香りは、これらの[コピーされた]菓子のいずれにもないのである。


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翻訳者:8410111
記事ID:29518