レバノン:玉ねぎを讃えて(2)

2022年04月04日付 al-Quds al-Arabi 紙
玉ねぎを手にするデモ参加者
玉ねぎを手にするデモ参加者
■玉ねぎを讃えて

【エリアース・ハウリー】

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ほとんどの場合で、女性名詞としての玉ねぎ(バサラ[可算名詞])を男性名詞化させること(バサル[集合名詞])はその重要性に起因すると考えられているが、これは誤った認識である。重要性が要求するのは女性名詞化であって、男性名詞化ではない。アラブ人の言語では「太陽」は女性名詞であり、ヨーロッパ人の言語では男性名詞であるのと逆である。同様に、「生命」は女性名詞であるが、それは起源が女性であるからである。

しかし玉ねぎは比喩として使われる際、様々な曖昧さに悩まされる。それはある時には「重要」であり、ある時には「余計」なのである。口語的な慣用句では、「玉ねぎの皮に等しい」といって、あるものには何の価値もないことを言う。その逆で、「玉ねぎは根源の食べ物」や「町中の玉ねぎにありつける町」などとも言う。

レバノンでの2019年10月の抗議行動に参加した者は皆、玉ねぎに良い記憶を持っている。事実、レバノンの地平が変化の可能性に開かれていたように思われたあの美しい日々に、私と玉ねぎの親密な関係は更新された。あなたも若い男女のグループが皮を剥いて刻んだ玉ねぎを同じく男女で構成されたデモ隊に配っていたのを見ていただろう。これは、治安部隊が何度もロケットランチャーを使うほど激しく発射していたガス弾の影響に対抗するためだった。我々はそれを催涙ロケットと呼んでいた。

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翻訳者:下宮杏奈
記事ID:53221