イラク人作家が綴るルネサンス期の詩人女王

2026年05月26日付 al-Quds al-Arabi 紙

■マルグリット・ド・ナヴァール――フランス・ルネサンス期の詩人女王」

【コラム:本紙】

マルグリット・ド・ナヴァール(Marguerite de Navarre)は、マルグリット・ダングレーム、すなわちアングレームのマルグリットとも呼ばれ、ほかにもマルグリット・ド・ヴァロワ=アングレーム、マルグリット・ド・ナヴァールの名で知られている。1492年4月11日にアングレームで生まれ、1549年12月21日にオドス=アン=ビゴールで亡くなった。フランソワ1世の姉である。

マルグリットは、1509年の最初の結婚によってアランソン公爵夫人となり、1517年にはフランソワ1世によってベリー公爵夫人に叙せられた。さらに、1527年の二度目の結婚によってナヴァール王妃となった。

1528年にはジャンヌ・ダルブレ、すなわちジャンヌ3世を産んだ。ジャンヌは1555年にナヴァール女王となり、後にフランス王およびナヴァール王となるアンリ・ド・ブルボン、すなわち後のアンリ4世の母となった。

人文主義と宗教改革の理念の庇護者であったマルグリットは、フランス・ルネサンスを象徴する人物の一人である。米国の研究者サミュエル・パットナム(1892~1950年)は、彼女を「最初の近代女性」と評した。

マルグリットは16世紀前半に中心的な役割を果たし、外交の分野でも大きな影響力を有していた。また、新しい思想に強い関心を示し、フランス宮廷の芸術家たちを奨励した。彼女が庇護した多くの芸術家や作家には、フランソワ・ラブレー(1483~1553年)、クレマン・マロ(1496~1544年)、クロード・ド・ベクトズ(1547年没)、ピエール・ド・ロンサール(1524~1585年)、作家ボナヴァンチュール・デ・ペリエらがいる。

マルグリット自身も優れた作家として知られ、「十番目のミューズ」と呼ばれた。なかでも、物語集『エプタメロン』によって広く知られている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)は、マルグリットとその弟フランソワ1世の客人として滞在している間に亡くなった。マルグリットとフランソワ1世は、母ルイーズ・ド・サヴォワの居城であったアンボワーズ城で育った。

詩人でもあった王女マルグリットは、カペー朝オルレアン家の一系統に属する王女として、1492年4月11日にアングレームで生まれた。父はアングレーム伯シャルル・ドルレアン(1459~1496年)、母はルイーズ・ド・サヴォワである。

マルグリットはアングレーム城で生まれ、後にフランス王フランソワ1世となる弟より2歳年上だった。

ある民間伝承によれば、ルイーズ・ド・サヴォワが娘にマルグリットという名を付けたのは、妊娠中に牡蠣を欲しがり、誤って真珠を飲み込んだからだという。「マルグリット」という名は、「真珠」を意味するギリシア語の「マルガリテース」に由来する。

この伝説にちなみ、王国の詩人たちはマルグリットを「ヴァロワの真珠」と呼び、自分たちの庇護者とみなした。彼女の洗礼式は、城内の礼拝堂で簡素に執り行われた。

1487年以降、父シャルルは自らの領地で以前のような支持を得られなくなり、1496年に亡くなるまで、封建領主としての享楽と文人としての楽しみの間を行き来する生活を送った。

そして認めなければならないのは、マルグリットの「文章を書く才能と瞑想する力」が、最良の教師たちによって呼び覚まされ、さらに、一人の教育ある女性によって育まれたということである。その女性とは、教育者としての長所を多くの伝記作家からしばしば見過ごされてきた、彼女の母ルイーズ・ド・サヴォワである。

(後略)


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翻訳者:宮平清香
記事ID:62304