クナエインダンの希望:元ハンセン病患者たちの村(10-17-9-1)
2014年05月12日付 The Voice 紙

マグェー管区域パコックー市の住宅地区から程遠い郊外地。市内はテレビの衛星放送の音や歌声で賑やかだが、ここは静まりかえっている。彼らは高さ5フィートほどのヤシ葺きの小屋に住み、よそ者のやってくるのをぼんやりとした眼で見つめていた。ここは地元の人々がクナエインダン[「クナ」=「7」、「エイン」=「家」、「ダン」=「列/通り」―訳者註]と呼ぶところ、かつてハンセン病を患った者たちが住む第15区だ。

 「ここができたのは、ウー・ヌらのピードーター計画の時代からだと言わねばなるまい*。もう70年くらいになるが、これまでになんの発展もない」と、クナエインダンの行政責任者ウー・ニュンウェィはインドセンダンの並木の下に軒を連ねる小屋々々を眺めて言った。
 およそ6エーカーの土地に、ミャイン、イェサチョー、パウッ、セイッピューなどのマグウェー管区域内の諸郡から患者たちが移り住んだ。当初は苦しみに喘いでいた70人強の患者がいたが、今では、もはや患者ではない114人の人々が、27戸、30家族をなして住んでいる。
 「ここの人たちはみなもう治っている。しかし、かつて病気にかかっていた痕跡として、手足が不具となってしまった者も見られる」とウー・ニュンウェィは説明した。
 約70年前から住んできたので、現在住んでいる人たちは第2世代、第3世代だ。現人口114人の中には、今年、学位を取得した男性が1人現れた。さらに、大学入学試験を受けた者も3人おり、2013年時点で教育を受けている者が23人いる。ここに住んでいる者の多くは臨時雇いの仕事をしており、10人ほどは今でも物乞いをして生活しているということが地元民への取材からわかった。
 「この病気にかかったら、村から追い出されたので、パコックーに来たのだ」と77歳になるウー・バチャーは人生を振り返り語った。
 彼はミャイン郡ユワーゴウン村の人で、12歳のときに両親からハンセン病に感染し、20歳のときにパコックーへ来たとのことだ。
 ウー・バチョーはクナエインダンの開村時から住み続けてきた人で、現在、病気は完治しているが、一生治らない手足の障害を負っている。以前は物乞いをして暮らさねばならなかったが、今では息子や娘が養ってくれているので安らかに暮らせているという。
 同様に、79歳のウー・チュエットーもクナエインダン開村以来の住民で、病気のために手足の指が根本まで固まってしまったのみならず、視力も失った。以前は妻が豆搾りの仕事で得た金で暮らしていたが、今では、軍人だった亡き息子の年金月額42,000チャットで暮らしている。
 「息子が亡くなってからまだ日が浅い。今は息子の年金だけで食べている。妻も耳が聞こえない。妻にものんびりと暮らさせてやりたいから、豆絞りの仕事はもうさせない」とウー・チュエットーは言う。
 クナエインダン在住の若者たちはパッコクー市内で臨時雇いの仕事をしている。差別待遇を受けることはないにせよ、彼ら自身、内心気まずい思いも抱えている。
 「私たちの時代も恥じ入ったものだ。しかし、私たちは健常者だ」とクナエインダン在住の40歳の男性は言った。
 2003年にミャンマー政府がハンセン病を根絶した国家の仲間入りをしたと宣言したものの、今でも人口1万人につき1人未満ではあるが罹患例が見られると国内メディアが報道した。
 ハンセン病の定義は、①皮膚に斑紋ができ、白んだり、赤らんだりして、感覚が麻痺する、②神経損傷の症状として、感覚の麻痺、手足や顔面の筋肉の弛緩、動作不如意、神経の肥大が起きる、③皮膚の斑紋から一部を削り取り検査して細菌が発見される、といった3点のうち少なくとも1点が当てはまることと医学的に定義されている。
 さらに、ハンセン病患者というのは、ハンセン病の症状が見られ、薬剤を十分な期間投与されていない者をのみ指すこと、十分な証拠がなければハンセン病患者と呼んではならないことなどが、保健省の発表したハンセン病根絶の手引きに書かれている。
 ハンセン病かどうかは、身体に白や赤の斑紋が出ている場合に、麻痺の有無を調べる、つまり、神経の通っている場所で筋肉が委縮して手が動かせなかったり、温度感覚がなかったりしないかを検査し、病気かどうか診断する必要があると、パコックーの地元の医師が話した。
 ハンセン病が発症すると恐れおののいてしまう人たちもいる。それは間違った考えで、近くの保健所で検査を受ければ、MTD(多剤併用療法)による治療を無料で受けることができる。その療法で与えられた薬を飲めば、約1週間で病気の感染を90%防げるようになる。病状の軽重により、6カ月から1年の間、治療を受けねばならないと同医師は言う。
 「ここにいる人たち全員がMTDによる治療を終えている。他の健康上の問題が生じても、普通の人と同じように薬を処方できる」と、クナエインダンの保健担当者でもあるウー・ニュンウェィは述べる。
 MTDによる治療は1999年から始められ、現在は病原菌が根絶されたこと、体内の病原菌が消滅したように病状も消え、普通の人と同じようになったこと、子供たちは普通の人たちと同じように心身ともに健康であることなどを40歳ぐらいになる同氏は話した。
 「村外の人と結婚する者も6人ぐらい出た」と同氏は言う。
 2007年からクナエインダンで社会問題や健康問題につき援助してきたウー・キンマウンミィンの言によれば、1990年までは政府が1人あたり20チャット(半緬斗[1緬斗約20キログラムの半分-訳者註]の米を購入可能)の補助をしていたが、今では一部の社会組織からの寄付が少しあるだけで、彼らは自力でなんとか暮らしていかねばならず、また、現在、パコックー市内では24時間電気が利用できるが、クナエインダンではまだであるという。
 「私は彼らの卑屈な気持ちをなくさせたい。彼らと他の人たちには平等の権利があると知らせたい。特に若者たちだ」と同氏は言う。
 同氏はまた、電気が来たら、彼らが自前でできる仕事を立ち上げ、日々収入が得られるようにするつもりだとも話した。
 1世帯につき4000チャットを徴収して、発電機で1日に2時間電気を供給できていること、一部には供給できない世帯もあること、それは電線を引くのに遠すぎるためであること、電線を引くにはおよそ600万チャットかかること、2010年にミッターシン師(シュエピィーダー)が変圧器を寄付すべく電力省に申請したが、費用と受益者数が釣り合わず、今に至るまで実現していないこと、電線を引く距離は最短でも600フィートほどあること、利用するには180ボルトぐらいなくては都合が悪いことなどをウー・ニュンウェィが説明した。
 現在では、ウー・キンマウンミィンの指導の下で、自前の講堂、図書館、診療所、井戸、農地といった一地区の体裁を整える諸施設が造られている。住居も40フィート×60フィートの区画に整理して他所の住宅地と同様にし、講堂でも布薩日ごとに説法会を催していると地元住民たちが明かした。
 少し離れた小さなサッカー場では、若者たちがサッカーに興じている。彼らはクナエインダンの第3世代で、差別をなくすべく取り組んでゆかねばならない人たちだ。クナエインダンという名前が指すのは、家が7軒集まり建つ場所ではなく、7列の家並みの連なる場所だ。ハンセン病患者の住んでいる場所ではなく、ハンセン病の治療を終えた者たちが住んでいる場所だ。
 ここに住む人たちへの差別はそれなりに消えつつあるが、人並みに暮らしてゆくにはまだ困難があるし、若者たちの就業機会も乏しいのが現状だ。
 「今は、選挙でも投票する権利がある。携帯電話のカードの抽選でも籤を引く権利がある。以前と比べたら、希望も増してきた。私たちはもう別世界の住民ではない」と、ウー・ニュンウェィはうつろな眼差しで語った。

                            (ミャッ(カレィ)、ネィリンピュー(パコックー))


※補足:クナエインダン開村の時期について
ミャンマーの独立後の初代首相ウー・ヌによるピードーター計画(福祉国家建設計画)は、1952年に始動する。したがって、この時期にクナエインダンが開かれたとすると、開村の時期は今から60年ほど前ということになる。後の住民の語りでも、約60年前開村と考えたほうが話の辻褄が合う。しかし、翻訳に際しては原文を尊重して70年前との記述を残した。

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( 翻訳者:長田紀之 )
( 記事ID:702 )