児童中心教育をどこで行うべきか(10-20-5-1)
2014年06月03日付 The Voice 紙

 児童中心教育というのは、児童が全てのことを自分自身で行うことを通して、児童を精神的にも身体的にも成長させるために、児童自身にやらせることである。児童中心教育は紙の上では行えない。児童中心教育を実際に行わなくてはいけない場所は教室である 。
 児童中心教育を行わなくてはいけないのは、教室内の先生である。教室の先生が児童中心教育を行わないうちは、つまり児童がやらなくてはいけない課題を児童自身がやらないうちは、あるいは親や塾の先生が手伝ったり考えてやったりすることをやめないうちは、児童中心教育を行っているとどんなに言っても、当時は時代に合っていたとはいえ、現在の状況では植民地時代の悪しき遺産となっている教育制度のように、それぞれがバラバラに動いているに過ぎない。
 実際に、先生が児童中心教育に必要な改革を行っていることは分かる。しかし、このスピードでは改革に何百年もかかる。親が必要としていることを先生は知らず、先生が必要としていることを児童は知らず、児童が必要としていることを先生は知らず、児童が必要としていることを親は知らず、教育省が必要としていることを誰も知らない。学ばない。教育省が定めた教育制度で現代の発展した国家を建設しようと明記してあるが、この目標は親の目標ではない。親の目標は子供達が医者になること。医者にさせるために何とか尽力する。尽力しながらも医者になれないと、もはや関心がなくなる。自分にとっていいと思う学部を選びなさい、学位をひとつ得られればもうそれでいいわ、となる。現代の発展した国家の建設には興味がない。先生たちも「優」の評価点を出すことに集中している。「優」をとった科目が多く、良い点数をとって初めて医科大学に入れる。そうすれば名誉が手に入る。人生の成功となる。だから、先生、親、児童、政府が目標を揃えることが必要である。磁石と普通の鉄の塊を例にしてみたい。それぞれ鉄であるというのは同じだが、性質は同じでない。磁石でない鉄の塊は、分子・原子レベルの構造で分子・原子の目指すところは多様であり、それぞれの力は分離しどんな特徴もない鉄の塊にしかすぎないが、磁石の性質のある鉄の塊の原子の構造において、このようなそれぞれの集合体の目標が同じになる時、それぞれの力を統合し磁気が現われる。
 同様に、先生、親、児童、政府が目指す目標が揃ってくれば、以前には目にしたことのなかった、目にすることのできなかった能力がミャンマーに浮かび上がってくるだろう。大規模に行うためには能力が必要である。今日行っている改革をはっきり分かるようにする必要がある。国民全員が知るように熱意をもって説明しなくてはならない。政府は静かにしていてはいけない。国民と繋がりを持っているように、国民に聞くように言う必要がある。つまらぬおしゃべりをする必要はない。
 どのように改革するか。どのように協力するか。どのように大変か。どのように我慢しなければならないか。どのように上手くいくか。いつ上手くいくようになるか。どれくらい楽しいか。今日何をするか。明日何をするか。今日学校の教室で何をするか。明日は何をするか。どのように役立つのか。誰に、どのように役立つのか。なぜすべきなのか。いつ始めねばならないか。親の義務、先生の義務、児童の義務、政府の義務、全てがわかるように行っていくことが必要である。

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( 翻訳者:高山秀俊 )
( 記事ID:812 )