ベトナム-ラオスの戦闘同盟:友好と栄光の道のり
2019年10月29日付 VietnamPlus 紙
ラオスの戦場での戦闘に参加するベトナム義勇軍の部隊
ラオスの戦場での戦闘に参加するベトナム義勇軍の部隊

 ベトナム義勇軍戦士は、ラオス武装勢力と共闘するためラオスへ渡り、2つの国の植民地主義・帝国主義に対する抗戦を勝利に導く貢献をした。

 ベトナムとラオスの両国は山河が一続きの隣国であり、両民族の兄弟的結合関係は建国と国家保持の数千年の歴史を通して形作られてきた。
 過去70年、ホー・チ・ミン主席とカイソン・ポムビハン主席が土台を築いたベトナム-ラオス両国の人民間の素晴らしい伝統ある関係、変わらぬことのない繋がりは、両国の党における後継指導者世代、二つの国家およびその人民によって充分に育まれ、二つの民族双方にとっての貴重な財産となり、人民が満ち足りて幸福になるための繁栄・発展の途上での両国共通の発展法則となってきた。
 フランス植民地主義・アメリカ帝国主義の支配と侵略に対する闘争の時期、両国は力を合わせて共通の敵と戦った。
 ベトナム義勇軍戦士はラオス武装勢力と共闘するためラオスに渡り、2つの国の植民地主義・帝国主義に対する抗戦を輝かしい勝利へと導く貢献をした。
 過去の歴史的に勇壮な道のりを振り返ると、我々は、世界でも稀な、特別に団結した偉大な友好関係を形成・発展させた過程を誇りに思うことができる。その道のりは、両民族の優秀な人々から選ばれた軍民の必死の決意・犠牲、真心を刻印している。
 ラオスに派遣されたベトナム義勇軍と専門家の伝統の日70周年(1949年10月30日-2019年10月30日)を記念して、ベトナム通信社の記者は「友好と栄光の道のり」という5つの文章を同時に発表する。

1:ベトナム-ラオス戦闘同盟―特別な団結感情の表れ

 1954年8月、政治局員、総政委副書記、総司令部政治総局主任のグエン・チー・タイン同志と、ラオス支援顧問団(第100団)団長のチュー・フイ・マン同志は、報告およびご機嫌伺いためホー・チ・ミン主席のもとを訪れた。
 この意義深い面会において、ホー・チ・ミン主席はベトナム-ラオス両国の党・軍隊・人民の間の特別な関係や戦闘連帯感を高く評価した。彼は、第100団の幹部・党員に諭した。「友好国の人民を助けることはつまり自分が自分で自分を助けることだ」。
 カイソン・ポムビハン主席も、世界革命の歴史の中で崇高なプロレタリア国際精神に関する明確な模範は数多く存在するが、いまだかつてどこにもベトナム-ラオスのような特別で、長期にわたる、全面的な連帯感や戦闘同盟はなかったと評価した。
 ラオスの党・国家・人民は、数十年にわたる過酷な試練を通して、両国の幹部・党員・戦士・人民が、両国の民族独立のために自らの身を投げうつことも含め全てを犠牲にすると誓ったことを非常に誇りに思っている。
 ベトナムとラオスが民族独立と社会主義に到達し、共に平和で繁栄した国家を建設していく道のりは、カイソン・ポムビハン主席が「山が崩れ、河は水が干上がるかもしれないが、ラオスとベトナムの親愛の情は山河より永遠に堅固である」と肯定したように、戦闘同盟や相互扶助の団結における固い情義から由来している。

   ラオスにおけるベトナムの義勇軍・専門家勢力の成立と発展

 二つの民族の建国と護国の歴史において、ベトナム-ラオス両国の人民は互いに助け合ってきた。
 ベトナム民主共和国政府(1945年9月2日)とラーオ・イサラ政府(1945年10月12日)の成立は、ベトナム-ラオス両国の連帯感と相互支援を戦闘同盟のレベルにまで高める基礎となった。
 政権を獲得した直後、両国政府はラオス-ベトナム相互援助条約(1945年10月16日)とラオス-ベトナム連合軍組織に関する条約(1945年10月30日)を調印した。
 それらは、ベトナム、ラオス両国が協力・団結して共通の敵と戦うための法的基礎を作った最初の公式文書であった。1948年から、ラオスにおけるベトナムの軍事勢力は徐々に中隊、大隊、連隊級の規模をもつ独立した各単位として成立していった。
 1949年10月30日、インドシナ共産党中央常務委員会は、「ラオスを支援する戦闘と工作をおこなうベトナムの各軍事勢力は、独自の体系をなし、義勇軍と名乗る」と決定した。
 これはラオスの戦場における各軍事勢力の発展と成長の歩みを印す歴史的里程標であり、国際的義務を果たす中でわが党が示した路線・見方が正しかったことを肯定するものである。
 1949年10月30日は、ラオスに派遣されたベトナム義勇軍と専門家の「伝統の日」とされている。1950年4月、党中央と国防省―総司令部は、ラオス北部の戦場で活動する義勇軍の各勢力を3つの分区(A、B、C)に統一し、連隊、大隊、中隊に編成すると決定した。
 ベトナムにおける1950年の秋冬国境作戦に勝利した後、1951年になると、ベトナム-ラオス両国の指導者の合意に従って、党中央と総司令部は引き続きラオスの戦場に赴く幹部と義勇軍部隊を増強し、総兵力は約1万2000人に上った。
 1951年4月、党中央と総司令部は北部および西部ラオスにおける義勇軍勢力を統一し、党幹事委員会と上ラオス戦線義勇軍司令部を成立させると決定した。組織面では、上ラオス戦線義勇軍は第80、第81、第82、第83の4団(各団は連隊に相当)で構成され、一つの勢力圏で援助活動をする責任を負った。
 1954-1959年にかけて、ラオスの革命に対するベトナムの援助方法は変化した。我々は(フランス植民地主義に対する抗戦の)義勇軍制度から軍事顧問制度(1959年以降、軍事専門家と呼ぶ)に転換する方針をとった。
 軍事面では、ベトナムの党中央は、義勇軍のシステムから切り離して顧問制度を作り、国防省、軍政学校および各単位・地方という3つのレベルで実現した。
 1960年からアメリカ帝国主義がラオスの国内事情に日増しにあからさまに介入し、「特殊戦争」という戦略を実現していた時、ベトナム-ラオス両国の軍隊および人民の共通の敵に対する戦闘団結関係は、ますます深く濃密に固められ発展していった。
 1965年以降、両国の党および政府の合意に従って、ベトナムは支援する義勇軍と専門家の部隊を引き続き増強した。ベトナム義勇軍は、ラオスの各部族の軍民とベトナムから派遣された主力軍と連携して大作戦を展開し、敵の作戦行動を打ち負かして上ラオスの匪賊の根拠地を殲滅した。
 1969年、アメリカ帝国主義はラオスで「強化した特殊戦争」を実現し、ラオス革命を支援する任務の要求は日に日に高まっていた。友邦の新しい状況に対応するため、ベトナムの党中央と国防省は、ラオスで国際的任務をおこなっている義勇軍の各団と専門家を主体的に整理し組織・編成した。
 アメリカ帝国主義と傀儡軍が向う見ずにも戦争を全インドシナに拡大した時(1970年)、ベトナムとラオスの武装勢力の間の戦闘連携は引き続き新たな発展を見せた。
 ラオスの党中央と国防省の提議に従って、ベトナムの党中央と国防省は軍事顧問・専門家の各団の第100、959、463、565団および義勇軍の各団の第335、316、763、766、866、968団を次々とラオスの戦場に派遣し、帝国主義者と手先の輩のあらゆる陰謀・策略を打ち砕くために、ラオスが戦力を構築し、解放区を固め、大小さまざまな作戦をもって勇敢な、長期にわたる、困難で犠牲的な抗戦を進めるのを助けた。

   「友邦の人民を助けることは自分が自分で自分を助けること」

 プロレタリア国際精神とホー・チ・ミン主席の教えにより、ベトナムの義勇軍と専門家は多大な貢献をなし、ラオスの各部族の軍民と共に任務を立派に完遂し、侵略的なフランス植民地主義・アメリカ帝国主義に対する2つの抗戦(1945-1975年)において完全勝利を勝ち取った。
 友邦が政治的基礎を築き、武装勢力や革命根拠地を築き固めるのを手助けしただけでなく、ベトナムの義勇軍と専門家は、友邦が人民戦争を発展させ抗戦の要請に応えるのを助けるのに貢献した。すなわち、武装勢力を訓練し、政治工作を強化し、党を建設し、ラオス革命の任務を担う力が十分にある幹部の隊伍を訓練・養成し発展させた。
 フランス植民地主義に対する抗戦の中で、ラオスの抗戦勢力が都市から農村・山間部に転じ、タイ国境地帯へ渡った時、大衆の政治的基盤はいまだ非常に貧弱だった。
 義勇軍の各団は勢力を分散させ、基礎工作隊・武装宣伝隊をつくって村々で宣伝し、抗戦の路線を教育し、目覚めさせ、人民をイサラの各会に組織しなければならなかった。
 非常に困難な条件の中で、義勇軍の幹部や戦士は確固たる意志を掲げ、自らを犠牲にする心構えをし、「民と3つを共にし、踏みとどまって、革命の基礎を建設する」を実行した。
 特に、義勇軍第83団は友邦と共に宣伝しゼロからビエンチャンに革命の基礎を築き、ナムトン地方における最初の幾つかの基礎から発展・拡大させ、敵の懐に5つの連環した革命拠点区と各地方に幾つかの抗戦の基礎を成立させた。
 義勇軍各団の積極的な支援と友邦の多大な努力により、フランス植民地主義に対する抗戦の最終局面において、ラオスにおける革命の基礎や抗戦の拠点・解放区は拡大し、その中で多くのラオスにおける抗戦の拠点が、(ベトナムの)西北地方の各拠点地方、第4連区、第5連区の後方地域と互いに繋がって開通し、北部ラオスから中部ラオス、下ラオスまでの一連の抗戦勢力を成立させ、ラオスにおける反仏抗戦の発展を後押しする重要な前提を作った。

 アメリカ帝国主義への抗戦の中で、ベトナムの義勇軍と専門家は友邦に軍事援助をし、武装勢力を築き、その中でパテート・ラオの軍隊創設に注力し、抗戦するラオス各部族の人民と各武装勢力の中核とし、パテート・ラオ軍隊と連携して戦闘する愛国的で中立な組織をつくることに関心を寄せ手助けした。
 1954-1965年にかけて、軍事(顧問)専門家の任務を遂行する第100、959、463、565団は、友邦がラオスの環境・状況に合致した3種の軍を含む武装勢力を組織する機構を構築するのを支援するため、経験を創造的に運用した。
 1966年2月、ベトナム人民軍隊総合参謀本部は、在ラオスのベトナム義勇軍各部隊にゲリラ・民兵を組織するよう指示を出した。指示は「ゲリラ・民兵に属す指導・指揮系統および路線・方針・制度・政策に関する諸問題を含めて全面的に友を助ける」と明示している。
 これはまた各団、軍事専門家たちの主要任務でもあった。アメリカ帝国主義に対する抗戦の年月を通じて、武装勢力の構築と共に、ベトナムの義勇軍と専門家は常にラオスが各拠点区や解放区を建設し、長期の抗戦を進めるための支えとするのを手助けした。
 友邦が革命的実力を構築し、自ら任務を引き受けられるよう助けるという方針のもと、フランス植民地主義に対する抗戦の中で、ベトナム義勇軍各団は早くから友邦が、戦闘し抗戦拠点を防衛する革命武装勢力を構築し訓練するのを手助けした。
 当初、我々は友邦の人々を我々の部隊に入れ、面倒をみて指導し、ベトナム-ラオス、ラオス-ベトナムの混合部隊を組織した。その後、切り離して独立した組織を成立させ、ラオスの革命武装勢力の部隊を訓練し責任感や全体的な水準を高めるべく、しかるべき任務を分担させた。
 発展するゲリラ・民兵勢力とゲリラ戦争運動の基盤の上で、我々は友邦が地方部隊および主力部隊を構築し訓練する手助けした。こうして、1951-1952年に至り、ラオス革命は3種の軍からなる武装勢力を構築することができた。それには区の主力中隊、省の中隊部隊、県の小隊および村々のゲリラ・民兵が含まれていた。
 友邦の武装勢力の構築と発展を手助けすると共に、義勇軍各団は友邦のための幹部の育成・訓練を非常に重視した。
 抗米戦争中、ベトナムの義勇軍と専門家は徐々に4つの大きな技術によって友邦が軍事力の水準を高める訓練を行う手助けをした。中でも射撃技術と、どんな状況でも敵を倒すための戦術形式の使用原則に主眼を置き、友邦が政治・軍事に関する速成幹部訓練クラスを開くのを積極的に助け、革命の各段階で友邦のために任務の要求に応えた。

   共に戦う
 
 30年間(1945-1975年)ずっと、我々の軍隊とラオス各部族の軍隊・人民は肩を並べて戦い、徐々にフランス植民地主義とアメリカ帝国主義の侵略戦争を打ち破っていった。特に、ベトナム義勇軍勢力は友邦の軍民と共に戦って、チュオンソン山脈西側の戦略的輸送路・ホーチミンルートを防衛し、ラオスの戦場を他の戦場と連携した戦場とし、ベトナム-ラオス-カンボジア三国の革命の共通の勝利に貢献した。
 1951年初頭、義勇軍第80団はいくつかのラーオ・イサラの部隊と共に多くの待ち伏せ攻撃を仕掛けた。1951-1952年および1953年初頭に義勇軍とラーオ・イサラ軍隊の襲撃・待ち伏せ攻撃による小さな戦いと敵に対する掃討の戦いに勝利したことで、後に続く多くの戦いで敵への攻撃に転じ、同時にベトナムの主力軍部隊と連携して大作戦を展開する可能性を広げた。
 それは上ラオス作戦(1953年4月13日-5月18日)、中ラオス作戦(1953年12月21日-1954年4月)、下ラオス-東北カンボジア作戦(1954年1月31日-4月)であり、敵の多くの精力を摩耗・消滅させ、上ラオス、中ラオス、下ラオスの解放区を拡大・強化し、敵の平定手段・陰謀やラオス-ベトナム両国の軍隊および人民の間の特別な戦闘帯感を分断する陰謀を失敗させた。
 中核的な役割により、抗米戦争の中で、ベトナム義勇軍は主体的にパテート・ラオの武装勢力と連携し、中ラオスおよび下ラオスにおける作戦活動を推進し、南部ラオスー国道9号線区域でのアメリカと傀儡軍によるラムソン791進軍に反撃する作戦の勝利を共に収めた。
 南部ラオスー国道9号線作戦(1971年)、ジャール平原(チュム平原)-ムオンスイ作戦(1972年4月)、ジャール平原-シエンクアーン防衛作戦(1972年11月)などにおける両国の軍民の軍事的勝利により、敵の精力を大幅に削ぎ、軍事的に漸進的勝利を収め、友邦ラオス人民の共同闘争を支援し、「特殊戦争」戦略を打ち破り、ラオスにおけるアメリカ帝国主義の「強化した特殊戦争」戦略の打破に進み、情勢の好転に貢献し、ベトナム自身の戦場における南部や中部高原の軍民の進攻・蜂起と共に徐々に敵を打ち負かし、さらには完全敗北へ追いやった。
 戦闘への周到な準備によって、1962-1972年のラオスの戦場における進攻作戦の中で、参戦した我々と友邦の義勇軍・主力軍勢力は日に日に大きくなった。その他に、何千ものゲリラ・民兵と民工が作戦地で参加・従事した。
 ラオスの戦場は主な戦場との非常に有力な連携をした戦場となり、ベトナム-ラオス-カンボジア三国の人民による抗米戦争での偉大な勝利をつくりだした。
 侵略的なフランス植民地主義とアメリカ帝国主義に対する抗戦におけるラオスの戦場での国際的任務を実現し、ベトナムの義勇軍と専門家の幹部・戦士は幾多の艱難辛苦に耐え、自らを犠牲にし、党と人民が託した任務を立派に完遂し、ラオスの戦場で数多くの戦功を立てた。
 ベトナムの義勇軍と専門家に属した多くの集団および個人が、ラオスの党・国家より数々の高貴な賞を授与された。ベトナムの義勇軍と専門家の幹部・戦士はラオスの各部族の人民に信頼・敬愛され、自身の部族の子弟のように見なされた。
 その偉大な貢献は、ベトナム-ラオスの両国間・両軍間の特別な連帯感を築き堅固なものにするのに大いに寄与した。

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( 翻訳者:岩切南 )
( 記事ID:5041 )