香港滞在時期のグエン・アイ・クオック(後のホー・チ・ミン)の革命的本領
2020年05月18日付 VietnamPlus 紙
ベトナム通信社記者に語る研究家・李明漢(右)
ベトナム通信社記者に語る研究家・李明漢(右)

 ホー・チ・ミン主席生誕130周年、主席が香港(中国)に足を踏み入れてから丸90周年に際して、ホー・チ・ミン主席の研究家でかつて映画「香港におけるグエン・アイ・クオック」の顧問をつとめた李明漢氏は、香港におけるホー・チ・ミン主席の秘密革命活動期のあまり知られることのなかった話をベトナム通信社記者に語った。
 研究家李明漢氏にすれば、ベトナムの偉大な指導者ホー・チ・ミン主席は有名な人物ではあるが、ホー主席が香港に滞在していた3年間の中で遭遇し乗り越えた困難についてよく知っている人はあまりいない。
 おそらく、共産主義者の人情・人格と革命的本領は、彼が香港の英国植民地主義者の刑務所から脱するのを助けた重要な要素の一つである。
 李明漢氏の話によれば、1930年1月20日、革命家グエン・アイ・クオックは宋文初(トン・ヴァン・ソー)の名前をもち、中国広東省の広州から汽車に乗り香港に来た。
 彼の任務は、コミンテルンの指示に従い、ベトナムにおける3つの共産党組織を統一し、プロレタリア階級の統一政党にすることであった。
 当初の計画では、この任務は広東省の中国共産党組織の支援と調整の下で広州にて実施されることになっていた。
 だが、そのとき広州では、国民党が共産主義者を臆面もなく弾圧し、安全ではなかったため、この任務は当時イギリスの植民地であった香港に移された。
 香港に到着後、宋文初は同志のホー・トゥン・マウとレ―・ホン・ソンから情勢報告を受け、彼はベトナム国内の3党組織の代表者に香港に来て統一について話し合うよう何とか連絡をとった。
 1930年2月3日(庚午の年、正月五日)、宋文初、ホー・トゥン・マウ、レ―・ホン・ソン、チン・ディン・ク―、グエン・ドゥック・カイン、チャウ・ヴァン・リエムとグエン・ティオウの7名は安南共産党、インドシナ共産党、インドシナ共産連団(代表者は会議に間に合わなかった)の3党をベトナム共産党という名前の一つの党に統一する会議を開いた。
 ベトナム共産党という名前は、当時の歴史的・地理的現実と合致するだけでなく、プロレタリアートの指導者レーニンの民族自決権の思想にも合致するものだった。
 統一会議を招集し成功裡に議長を務め、ベトナム共産党が設立された後も、宋文初は引き続き香港にとどまり革命活動をした。
 このとき、彼は九龍の譚公道186番の家に住んでおり、この場所は宋文初と他の共産主義者同志たちの秘密の連絡事務所となった。
 宋文初はこの住所を使ってサイゴンの同志たちに手紙を送った。そして1930年4月24日、手紙がフランスの密偵の手に渡ってしまった。
 フランスの密偵はイギリスの密偵と協力して、宋文初の居所の手掛かりと住所を探し出した。
 1931年6月6日早朝、宋文初と李心(リー・タム)という名前の女性同志は警察の一隊に押し入られて逮捕され香港警察署に連行された。
 香港警察署にて1週間拘留されたあと、1931年6月12日、香港警察は宋文初を香港島内のオールドベイリー通り16番にあるビクトリア刑務所に移した。彼は1931年6月から1932年の7月までの1年以上のもの間、ここで監禁された。
 現在ビクトリア刑務所は博物館に改装され、香港の魅力的な観光スポットとなっている。この時期、宋文初は裁判所で9回の審問を経なければならなかった。
 感動的な話は、イギリス人弁護士ロスビーについてである。宋文初を慕いその人格に敬服していたので、彼はイギリスの警察やフランスの密偵が何度も脅し妨害したにもかかわらず、自ら宋文初の弁護を無報酬で引き受けた。
 李明漢氏によれば、宋文初の逮捕後、コミンテルンは赤色救済国際連団や国際反戦同盟などを通じて、支援・救援活動を行うと同時に香港弁護士協会の会長でイギリス人の人権弁護士であったロスビー氏に宋文初の弁護を依頼した。
 宋文初との数回の面談のあと、ロスビー氏は宋文初に以下のように伝えた。「私はあなたがベトナムの革命運動の指導者であることを知っています。私は金銭のためではなく名誉のためにあなたを弁護します」。
 弁護士のロスビー氏は宋文初の剛毅にして正直で根性にあふれた性格に感服したことを妻に語っていた。
 思わずロスビー氏の妻は宋文初に直接会いに刑務所に行きたいと希望を告げ、その後、彼女は何度も薬や食べ物を買ってビクトリア刑務所の宋文初を訪問する人となった。
 多くの面談を通じて、宋文初は蓮の花が好きだと知り、ロスビー氏の妻は彼を訪問するたびに一束の蓮の花を買って贈るのを忘れなかった。
 よい香りがして清らかな蓮の花をロスビー氏の妻から受け取ったグエン・アイ・クオックは、その香りで故郷への思いが幾分か和らぎ、ビクトリア刑務所の隔離された独房での過酷な生活条件ともの寂しさを忘れ、革命活動を続けていくための困難を乗り越える決意を更に固めた。
 宋文初を訪問したある時、ロスビー弁護士の妻は親しい友人であるスタラ・ベンソン夫人(香港副総督であるトーマス・サウトン夫人)と同行した。ロスビー弁護士の妻と同様に、スタラ・ベンソン夫人は、英語を巧みに話し賢く気さくで楽天的な安南人男性に特に感銘を受けた。
 宋文初の才能、勇敢さと美徳に感服したスタラ・ベンソン夫人は、香港副総督の地位にある夫のトーマ・サウトン氏に宋文初のために便宜をはかってほしいとためらわずに表明した。
 1931年12月、香港の最高民事裁判所は宋文初を釈放する判決を下したものの、彼が香港に留まることを許可しなかった。
 釈放されたあと、宋文初は一時渡英することを要望した。1932年12月28日、彼は渡英するためシンガポール行きの船に乗った。しかし船がシンガポールに到着した時、宋文初は上陸することができず香港へ戻らざるを得なかった。
 1933年1月19日、彼は再び香港で投獄された。その後再びロスビー弁護士一家は宋文初を擁護し、彼を刑務所から出した。宋文初を移動させ秘密裏に香港から脱出させる計画は、弁護士ロスビー氏一家の支援を得て行われた。
 刑務所を出た後、健康状態により、宋文初は香港を離れることができなかった。この間、イギリスの密偵の監視をかいくぐる為に、宋文初は何度も居所を変え、ある時は中華天主教青年協会(YMCA)の寮に、またある時は弁護士ロスビー氏の私宅にいた。
 ようやく1933年1月22日に、宋文初を密かに香港から脱出させる計画が実行された。その時、彼は裕福な中国商人に変装してはしけに乗って沖合に出、中国福建省厦門行きの安徽号に乗った。1933年1月25日、厦門港にたどり着いた。
 話の締めに研究家李明漢氏は次のように強調した。グエン・アイ・クオックが香港に滞在していた1930年1月から1933年1月の丸3年間は、歴史が残している革命活動の話のほかに、共産主義者の人間的人格、道徳的品格や革命的本領は、グエン・アイ・クオックが香港に残した無形の遺産の一部である、と。

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( 翻訳者:池田樹生 )
( 記事ID:5342 )