息子たちは疑惑の矢面である。調査は司法調査委員会が行う──ナワーズ・シャリーフ

2016年04月06日付 The daily Jang 紙
私の家族は一銭たりとも国民の血税に手を付けたことはございません。一銭たりとも返済猶予など受けたことなどございません。我々は支払う必要もない債務をも支払った──首相の国民に向けた演説

25年間繰り返されてきた疑惑がメディア上で又もや話題にされようとしています。説明をするような暇はございません。私は全神経を愛しき郷土を暗闇から払い清めるという誓いに集中させております。私は一連の新たなる疑惑の真意を十分に理解してはいます。
息子たちはサウジアラビアとイギリスの法と規則に法り事業を展開しております。私は、事実が国民の前に明らかになって欲しいのです。お決まりの疑惑を繰り返し、日々見世物を繰り出す者どもはこの調査委員会の許にお越しあれ、そして、嫌疑を証明してみなさい。

イスラーマーバード(ニュース・レポーター、モニター班):―ナワーズ・シャリーフ首相はパナマ文書漏えい事件に絡んで自らに掛けられた疑惑の調査のために、最高裁判所の元判事を委員長とする高級レベルの司法調査委員会の設置を発表した。彼は火曜の夜国民に向けた演説においてこれを発表した。首相はこう述べた。「私のこれまでの政治人生の中で今回初めて少々私的な関連で言上申し上げるために皆様の前に参上しました。又もや一部の人々が自らの政治的な目論みのために私及び私の家族を攻撃しようとしているため、私も一言申し上げる必要性を感じた訳です。25年間繰り返されてきた疑惑がメディア上で又もや取り上げられようとしています。」と。曰く、「私は幾つかの基本的な事実を国民の皆様の前にご提示させて頂きたく存じます。そうすれば皆様にはこれら疑惑の正体が一体何であるのか、ご推測頂けますでしょう。パーキスターン建国のはるか前に私の父はラホールで事業を開始し、イッテファーク製鉄所を設立しました。パーキスターン独立の年までに同製鉄所は一個の安定した中堅企業に成長していました。またこの時までにダッカ、すなわち東パーキスターンでも別の製鉄所を稼働させておりました。経済的に安定した同製鉄所は数千人の雇用の受け皿となり、国庫に税の形で自らの貢献を果たしておりました。1971年12月16日に在東パーキスターン・イッテファーク製鉄所はダッカ陥落(=バングラデシュ独立)の犠牲となりました。その丁度15日後の1972年1月2日にはラホールにあったイッテファーク製鉄所もズルフィカール・アリー・ブットー政権に接収されてしまいました。同製鉄所はこの頃までに鋼鉄と機械では西パーキスターン随一の企業に成長していました。しかし1936年から積み上げてきた我が先達の汗と苦労と投資及び蓄財は一瞬にして消えてなくなってしまったのです。こうした酷い仕打ちと不公正にも亡父の決意と気概はびくともしませんでした。即座に神の名を唱え気合を入れなおすと、まだブットー政権の時代、18カ月も経たないうちに6つの工場を設立したのです。これは郷土愛と直向さ、決意と奮闘の輝かしいドラマであり、これは滅多にお目に掛かれますまい。イッテファーク製鉄所は1979年7月、廃墟同然の姿となって我々の手許に戻ってきました。私の父は破綻した財政状況にあった荒廃した残骸を再び生気のある企業の姿に建て直したのです。この極度に困難で不利な状況における決意と奮闘のドラマはこの時代のものです(この1文は削除して貰っても結構です)我が同胞よ!私が大学を出立てで、私や私の家族の誰一人として政治の世界とは無縁であった頃、この企業はこの国の経済発展に存分の役割を果たす傍ら、国庫に何億何数千万ルピーもの税を納めていました。」と。首相曰く、「我々が政治の世界とはほとんど無関係であった時も我々は苦難と試練を経験せざるを得ず、政界入りを果たせば果たしたで、我々は政治的及び私的な復讐の的になり続けました。皆様の中でご記憶にある方は多いでしょう、1989年に工場の原材料を載せた海洋船『ジョナサン』(その船名が『ジョナサン』でした)は1年間荷を降ろす許可が貰えず、そのせいで5億ルピーもの損害を被ることとなりました。私は1989年の話をしております。その頃の5億ルピーは恐らく現在の価値で500億ルピー以上も相当するかも知れません。第2回人民党政権時代にも、我々の事業は一種の経済封鎖を受け、あの手この手を使ってイッテファーク製鉄所は休業に追いやられました。1999年に文民政権の崩壊後、何がどうなったかは皆様がよくご存知です。14カ月間我々は牢に入れられました。我々の事業は又もや振り出しに戻り、それも完全に、しかも挙句の果てには、両親、我々、息子たちと親子孫3代の住み慣れた自宅さえ奪われる始末でした。我々は国外追放になりました。政府の役人を我々の事業、銀行口座、各生産ユニットやその他に対し冷酷無慈悲な査察に送り込んできました。しかしながら、こう申して宜しいでしょうか、我々は長年この一方的な査察という細い綱の上を綱渡りさせられながらも、神の恩寵とご慈悲のお蔭で足元が揺らぐことはありませんでした。我々は法と正義の審判の場で晴れて勝利して参りました。どの法廷においても我々に対する嫌疑は一切立証されることはありませんでした。強制的な国外追放の間、私の父は再度聖なるメッカの近くに製鉄所を設立しました。断っておきますと、我々は7年間国外での暮らしを余儀なくされたのです。このためサウジアラビアの複数の銀行から融資を受けました。数年の後この工場はその資産もろとも売却に付され、その売却益はハサンとフセインが各々自身の新規事業のために使用するところとなりました。私はここで次のことを補足してもいいかと存じますが、ハサン・ナワーズは1994年からロンドンに滞在しており、フセインは2000年からサウジアラビアにおります。2人とも居住国の法と規則に法り事業を展開しております。おかしな話です。私の息子たちは国内で合法的に糧を稼いでも批判のやり玉に挙げられ、国外で事業を起こし、これを経営しても疑惑の矢面です。私はただこう申したい、汚職や不法な手段によって財を築いた者は自分名義の会社など所有しませんし、資産を自分の名義で保有することなどありません」と。首相曰く、「異なる局面でイッテファーク製鉄所の完全な破滅を狙って仕掛けられた幾度にも亘る攻撃にもかかわらず、我が家族は返済すべき債務は一円一銭に至るまで全て返済し、その総額はおよそ57億5千万ルピーになります。我が家族は元利ともども一銭たりとも返済猶予など受けたことなどございません。こう申して宜しければ、我々は支払う必要もない債務をも支払ったのです。政権の座にあろうとなかろうと、私や私の家族は一銭たりとも国民の血税に手を付けたことはございませんし、権力を企業のために悪用したこともございません。」と。首相曰く、「私には言いたいことが山ほどありますが、極めて簡潔に言上を述べさせて頂くに止めました。私は愛しき郷土を暗闇から払い清め、建設と発展の新たなる高みの方に導くという誓いを行っております。私は全神経をこの誓いに集中させております。私には日々疑惑をぶつけてくる連中の相手をし、説明をするような暇はございません。私は一連の新たなる疑惑の真意を十分に理解してはいますが、自分のエネルギーをそんなものに使いたくはありません。」と。首相曰く、「私個人には如何なる嫌疑もなく、また私の息子たちは2人とも一人前の大人なのだから、このことに関しては距離を置くべきであると助言する友人もいれば、私が演説を行うことでこの問題は大事になってしまうと考える友人もいました。また別の若干の友人が言うことには、私個人や私の家族の誰一人として法に触れる、違法な行為の嫌疑は掛かっていないのだから、私にはこの問題にかかずらわる必要もないということでした。しかし我が愛しき同胞よ!私は、事実が国民の前に明らかになり、あらゆるパーキスターン人に疑惑の真相をご承知して欲しいのです。」と。首相曰く、「私は今日高級レベルの司法委員会を設置することを決定しました。最高裁判所の元判事がこの委員会の委員長を務めましょう。この委員会は独自の調査の後、事の真相が何で、疑惑にはどれだけの重みがあるのか断を下します。お決まりの疑惑を繰り返し、日々見世物を繰り出す者どもに言ってやりましょう、『この調査委員会の許にお越しあれ。そして、嫌疑を証明してみなさい』と。皆様に神のご加護がありますように。パーキスターン万歳!」と。


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翻訳者:渡邊すず花
記事ID:538