根っからのバングラデシュ人になった人
2016年08月06日付 Prothom Alo 紙

「私は1973年の10月にバングラデシュに来ました。それからずっと、この国にいます。この国は私の国だといつも思っています。時々両親に会いに、日本に帰ったことはあります。けれど、日本に戻ろうとは思いませんでした。グルシャンであの事件が起こり、そのために私はバングラデシュの人々のように傷つき、ショックを受けました。しかしこれは異常事態であり、この国の人々にはこんなことはできません。日本とバングラデシュの友情は長く、また今後も末長く続いていくのです」
先の7月1日、グルシャンのホーリー・アーティザン・ベーカリー・レストランで起きた残虐な襲撃に抗議して(ダカ中心部にある)ショヒドミナル(殉国者記念碑)とシャバグでの「大衆の目覚めの舞台」で開かれた追悼集会の舞台で、バングラデシュ在住の日本人女性、ブイヤン・ウエマツ・和子さんはこう述べた。
かつて和子さんが東京の大学の学生だった頃、当時の東パキスタンの南部を強大なサイクロン「ゴールキ」が襲い、何十万人もの人が亡くなった。そのとき東パキスタンの人を探していた和子さんは、日本のパキスタン学生連盟の会長をしていたモモタズ・ブイヤンさんと出会った。モモタズさんは当時、東大で船舶工学を学んでいた。和子さんは日本人学生による団体を立ち上げ、援助活動を始めたのだが、それとともにモモタズ・ブイヤンさんとも付き合うようになった。
(バングラデシュ独立の)1971年3月25日の後、モモタズさんはパキスタン学生連盟を離れ、バングラデシュ学生連盟を結成した。和子さんは再び、バングラデシュの独立戦争を支援、協力するための活動に奔走した。サイクロン被災者援助で活動で生まれたバングラデシュへの和子さんの思いは、独立戦争でさらに強いものとなっていった。モモタズ・ブイヤンさんへの和子さんの愛は、バングラデシュへの愛へと変わっていった。その後、1973年1月にふたりは結婚した。その年の8月、和子さんはバングラデシュへやってきた。そこからベンガル語を勉強し、日本語学校でも教え始めた。そうするうちに学校の校長も務めるようになった。
夫の実家であるキショルゴンジョのパクンディヤの人々にも、和子さんは身内のように接した。様々なボランティア活動にも参加した。
グルシャンのあの凄惨な事件のあと、どこで抗議集会や追悼集会が開かれているのかを和子さんに聞かれて、私(マムヌル・ロシド)は、集会の場所や時間を伝えた。和子さんはまず、文化団体が合同で開いた、ろうそくの灯りをともして犠牲者を追悼する集会に参加し、次の日にはシャバグでの「大衆の目覚めの舞台」に立ってスピーチをおこなった。そのスピーチの概要は最初に記したとおりである。和子さんは何度も言った。「日本に住む人々に、バングラデシュの人がどんなにこの野蛮な事件を憎んでいるのかを知らせる必要がある。両国の友情がずっと続くよう、守っていく必要がある」と。その言葉から、彼女には生まれ故郷よりもバングラデシュの方がさらに大切であるように思えた。日本のNHKでは、和子さんは日本語でバングラデシュの人々の気持ちについて語り、この国の人たちがテロをいかに憎み、抗議し、憤っているのかを伝えた。
独立戦争やサイクロン、洪水、高潮などの自然災害でバングラデシュが危機的状況にあったとき、外国の多くの人々が救援や協力の手を差し伸べるために、私たちの国へやってきた。独立の前から、外国の人たちがこうした貢献をしてくれたことを、私たちは知っている。(近代演劇の)額縁舞台を初めて作ったのも外国人で、ロシアの人だった。ベンガル語の分野では(大英帝国時代、インドの現地語研究の中心となった)フォート・ウィリアム・カレッジの果たした役割について私たちは知っている。しかし、和子さんは自分の名を売ることに全く興味がなかったために、そのバングラデシュへの愛を知る機会はこれまでなかった。どのようにサイクロンの被害者たちに寄り添ったのか、解放戦士たちの友人となったのか、難民キャンプで惨めな生活を送る人々のもとに駆けつけたのか、こうしたことを私たちはこれまで知らずにいた。和子さんの心の中の場所をバングラデシュがどのようにして占めるようになったのか、その血のなかにバングラデシュがどのように染み込んで一体となっていったのか、その歴史も知らないままだった。
ほんの数日前、アブダビの高速道路での事故で和子さんはこの世から永遠に去って行ってしまった。バングラデシュに戻ってくることはできなかった。43年前、果てしない喜びを胸にいだいてやって来た、この愛してやまないバングラデシュの地に、常に帰ってくる場所であったこのバングラデシュに、棺に入れられた姿でした帰ってくることしかできなかったとは、なんと不幸なことなのか。
自らをバングラデシュの国民だと常に考え、国民としての責務を果たしてきた、そして心からこの国を愛してくれたひとりの日本人を、バングラデシュは失った。
記:マムヌル・ロシド(演出家)
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翻訳者:加藤梢
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