ムジャーヒディーン司令官の殉教に対しデモ行進 被占領カシュミール(=インド・カシュミール)でインド軍の発砲、更に11名の命が犠牲

2016年07月10日付 The daily Jang 紙
殉教した司令官の告別式には何千人もの人々が出席し、カシミール渓谷全域で抗議、デモ隊と警察が小競り合い、夜間外出禁止令発令、携帯電話及びインターネットのサービスが停止
インド軍がタラールに続く主要幹線道路を封鎖。何千人もの人々が障害を乗り越え、殉教司令官の生まれ故郷タラールに到着。カシミール人たちのパキスタン支持のシュプレヒコール

 スリーナガル(本誌):-被占領カシュミールの小都市タラールでカシュミール系ムジャーヒディーンの司令官であるブルハーン・ムザッファル・ワーニーの殉教に抗議してカシュミール渓谷全域で激しいデモが行われ、殉教者の告別式には何千人もの人々が参列した。ところが、インド軍によるデモ隊一掃の狙いでなされた発砲の結果、11名の命が犠牲となった。警察とデモ隊との小競り合いの末、地域全体に夜間外出禁止令が発令され、被占領地域(=カシュミール)行政当局は抗議デモを阻止するためにその地域での携帯電話及びインターネット・サービスを停止し、教育委員会主催の試験の実施も全て中止した。報道機関によると、インド軍はタラールに続く主要幹線道路を封鎖したが、それでもなお人々はあぜ道農道を伝ってタラールに到達した。被占領地域各地から何千人もの人々が外出禁止令を物ともせず殉教者の生まれ故郷にたどり着いた。人々はこの機に際して解放とブルハーンのためにシュプレヒコールを上げ、パキスタンの国旗をたなびかせた。一つの大きな前進の印として、十有余人の聖戦士が告別式に顔を出し、空に空砲を放って殉教者に敬意を表した。ムジャーヒディーンによる殉教した仲間への空に空砲を放っての表敬は被占領地域において武装闘争がその絶頂にあった1990年代初頭に盛んに行われたところのものであった。
被占領カシュミール渓谷の各地でブルハーン・ワーニーとその仲間たちの追悼の意を込めて告別式が執り行われた。カシュミールにおけるソーシャルメディアを介する心理戦の元祖であった21歳の司令官ブルハーン・ワーニーは、仲間のサルタージ・アフマド・シェイフ、マースーム・アフマド・シャーとともにイスラーマーバード県のコーカルナーグにおけるインド軍との小競り合いの中で命を落とした(=殉教)。ブルハーン・ワーニーの殉教を受けて、カシュミール渓谷全域で反インド抗議デモが始まった。クールガーム県とイスラーマーバード県ではインド軍がデモ隊に発砲したため、9名の命が奪われ、100有余名が負傷した。激昂した若者たちは警察署やインド国境警備隊の衛所、そして南部カシュミール地域のアチャバルとハンジューラーにあるBJPの事務所を襲撃した。ある警察官がスリーナガルで行われた記者会見の席で次のように話した。すなわち、警察官3名も行方不明となっている上、デモ隊は警察官から武器も奪っている、と。サイヤド・アリー・ギーラーニー全党合同カシュミール開放会議議長、ミール・ワーイズ・ウマル・ファールーク、ムハンマド・ヤーシーン・マリク氏は、ブルハーン・ワーニーの殉教に続きインド軍と同警察による若者の多量虐殺が始まったことに抗議し2日間の共同ストライキを呼び掛けた。ところで、被占領地行政当局は殉教ムジャーヒディーン司令官の告別式への参列を阻止するために、全党合同カシュミール開放会議のサイヤド・アリー・ギーラーニー議長、シャッビール・アフマド・シャー氏、ミール・ワーイズ・ウマル・ファールーク首長、ムハンマド・ヤーシーン・マリク氏を含むカシュミール開放指導者層を残らず自宅と刑務所に拘束した。一方、イスラーマーバード(=パキスタン首都)でも殉教したブルハーン・ワーニーとその仲間たちの追悼の意を込めて告別式が執り行われた。


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翻訳者:渡邊すず花
記事ID:595